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【要約】SHOE DOG(シュードッグ) 著者 フィル・ナイト

SHOE DOG(シュードッグ)
 

SHOE DOG(シュードッグ)

著者
フィル・ナイト

要約
 

今やスポーツ用品のトップカンパニーとなったナイキだが、その始まりは日本のシューズメーカー「オニツカ」をアメリカで販売する小さな代理店だった。著者のフィル・ナイト氏は、なぜナイキを創業し、どうやって世界一のメーカーに育て上げたのか。本書はその紆余曲折を、さまざまな登場人物を交えながら、自伝的に語ったものだ。

 著者は1962年にランニングシューズビジネスを起こそうと思い立ち、日本へと向かった。そこからオニツカとの契約成立、アメリカでの販売網の拡大、契約打ち切り、ナイキブランドの誕生といった株式公開までの道のり、そして功なり名を遂げた今著者が思うことが、本書には赤裸々に描かれている。その道のりは順風満帆ではなく、訴訟や資産凍結など、著者は幾度も危機を乗り越えた。それは「走ること」に対する揺るがない信念があったからだという。

 ナイキは、アスリート自身とブランドを結びつけるという、スポーツマーケティングの先駆となった。そこに行きついた理由や、起業家精神など、どんなビジネスにも参考になる点が多く見つかるはずだ。また、プライベートでの出来事や心情も、丁寧に描写されたストーリーになっており、読み物としても楽しめる。ナイキのファンに限らず、多くのビジネスパーソンにぜひご一読いただきたい一冊だ。

要約

アスリート人生

 世界は馬鹿げたアイディアでできている。私は走ることが好きだが、これほど馬鹿げたものもないだろう。ハードだし、苦痛やリスクを伴う。見返りは少ないし、何も保障されない。走る行為そのものがゴールであり、ゴールラインなどない。走る行為から得られる喜びや見返りは、すべて自分自身の中に見出さなければならない。

 1962年のあの日の朝、馬鹿げたアイディアが目の前で輝いた。そして私は自分に言い聞かせた。走り続けろ。立ち止まるな。目標に到達するまで、止まることなど考えるな、と。

 私はそのアイディアを持って日本に向かった。父の知り合いを訪ね、私の馬鹿げたアイディアを話した。私はタイガーというブランドがカッコよくて気に入っている。神戸にあるオニツカという会社が製作しているブランドだ。私はオニツカの人と会いたいと言った。

 そこで2人は、日本でビジネスをする時の心得を教えてくれた。「コツは、ごり押ししないことだ。典型的なアメリカ人つまり典型的な外国人みたいに、不作法に大声で攻撃的に振る舞わず、ノーと言わないことだ。誰も君を叩きのめしはしない。直接ダメだとも言わない。かといってイエスとも言わない。彼らは輪になって話し、明確な主語とか目的語とかを言わない」。

 その日の午後遅く、西に向かう列車に乗った。先方はオニツカの工場で待っていた。工場では毎月1万5000足作っているそうだ。彼らは私を会議室に案内し「ミスター・ナイト、こちらへ」と言った。ここからが本番だ。私は何度も頭の中でこの場面をリハーサルしていた。

「みなさん、アメリカの靴市場は巨大です。まだ手つかずでもあります。もし御社が参入して、タイガーを店頭に置き、アメリカのアスリートがみんな履いているアディダスより値段を下げれば、ものすごい利益を生む可能性があります」。

 重役たちは感心して聞いていたようで、話し終わる頃には静まり返っていた。1人が沈黙を破り、さらにまた1人と全員が大声で興奮した様子で話し出した。すると突然、彼らは立ち上がって出て行き、数分後にスケッチやサンプルを抱えて戻ってきた。

 彼らは一斉に質問を浴びせた。アメリカの靴市場がどれくらい大きくなりそうかと聞かれたので、最終的には10億ドルになるのではと答えた。彼らはのけぞって驚き、なんと私にこう切り出した。「タイガーの代理店になる気はありませんか。アメリカで、ですが」。「もちろんです」と私は答えた。不思議なことが起ころうとしていた。

最初の在庫を完売

 海辺の倉庫まで車を飛ばしたのは1964年の第1週。たしか早朝だった。係員に通知を渡すと、奥から日本語が書かれた大きな箱を抱えて戻ってきた。入っていたのは12足のシューズで、クリーム色で側面に青のラインが縦に入っている。なんと美しいのだろう。フィレンツェやパリでもこれを超えるものにお目にかかったことがない。

 それからこのうちの2足を、オレゴン大学時代に陸上のコーチだったビル・バウワーマンに送った。バウワーマンは天才的なコーチで、彼が若者の発育に欠かせないと考えていた用具こそが靴だった。だから当然、このユニークな靴は彼の興味を惹くだろう。うまくいけば、彼はタイガーを何足か注文してくれるだろうと思った。

 シューズを受け取ったバウワーマンからすぐに返事が来た。「あの日本のシューズだが、すごくいい。私を契約に加えてくれないか」。彼はチームのためにタイガーを12足購入するだけでなく、私とのパートナーシップを希望してきたのだ。私はどぎまぎして言葉に詰まったが、イエスと答えた。

 オニツカに手紙を書いて、タイガーシューズのアメリカ西部での独占販売権を要請し、それから至急300足を発注した。販売戦略は至ってシンプルで、私は大西洋岸の北西部を走り、さまざまな陸上競技会に向かう。レースの合間にコーチ、ランナー、ファンらと談笑し、それからシューズを見せる。反応は決まって上々で、注文が間に合わなかった。

 帰りに、私は商売が突然軌道に乗った理由について考えた。それは、セールスではなかったからだ。私は走ることを信じていた。みんなが毎日数マイルを走れば、世の中はもっと良くなると思っていたし、このシューズを履けば走りはもっと良くなると思っていた。この私の信念を理解してくれた人たちが、この思いを共有したいと思ったのだ。

 シューズ欲しさに、手紙や電話で、着払いで至急送ってくれと言ってくる人もいた。こうして自然と、メールオーダーのビジネスが生まれた。人から人へとうわさを呼び、友人のまた友人へと口コミで広がった。何人かには宣伝用にと地元の印刷所で作ったビラを渡した。1964年7月4日、最初の在庫は完売し、オニツカにさらに900足注文した。

ナイキ・ブランド誕生

 1971年春のことだ。オニツカの社員であるキタミが私の机の向かいのイスに座り、私に怒りをぶつけた。「ブルーリボンの売り上げには失望している」と言うのだ。驚いた私は、会社は毎年2倍ずつ売り上げを伸ばしていると言ったが、そんなものではダメだと彼は言う。しばらく押し問答になり、礼節は守られたものの重い空気となった。

 7年間、私はタイガーシューズに身を捧げてきた。シューズをアメリカに紹介し、新たなモデルを開発した。バウワーマンと社員が改良したモデルが基となって売り上げが伸び、業界の様相が変わった。それなのにこの扱い?怒りが込み上げたが、大きく傷ついてもいた。

 キタミは週末に再び戻ってくると、「会社を売却するのです」と言った。「オニツカ株式会社はブルーリボンの経営権を51パーセント買い取ります。最高の条件ですよ。あなたにも。受け入れた方が賢明かと」。乗っ取りだ。敵意むき出しの乗っ取りだ。私は天井を見上げた。

 こうしたショックが重なり、オニツカに代わる製造業者を見つけることにした私は、アディダスが1968年のメキシコオリンピックでシューズを製造したグアダラハラの工場を思い出した。現在生産している商品のカタログを受け取り、レザーの加工場を見て、これだと思った。工場は大きく、清潔で、うまく稼働している。しかもアディダスのお墨付きだ。

 私は3,000足のサッカー用レザーシューズを、フットボールシューズとして販売しようと思い、「御社に注文したい」と言った。工場のオーナーからブランド名を聞かれ、私は帰って考えることにした。問題はロゴだ。オレゴンに戻った私は、パンフレットや雑誌の広告を手掛けてくれたキャロライン・デヴィッドソンをオフィスに呼び、躍動感のあるロゴを考えてくれと頼んだ。

 数日後、キャロラインは数十個のバリエーションを描いて来てくれた。気に入ったのは…これだ。翼みたいだと1人が言った。風が吹いてくるみたいだともう1人が言った。ランナーが走った跡みたいでもある。

 私たち全員がこれが斬新で、しかもなぜか古代を彷彿とさせると納得した。つまり時代を超越しているのだ。次は何時間もかけて意見を出し合い、新ブランドの名前が、「ナイキ(NIKE)」に決まった。簡潔で短く、名前に強い響きがある。しかもナイキ(ニケ)は勝利の女神であることも気に入った。

需要増大の恐怖

 需要と供給は、ビジネスにおいて常に根本的な問題だ。製品を開発して製造し、市場に出すだけでも困難だが、製品を欲しがる人たちに、ぴったりのタイミングでそれを届ける戦略、メカニズム、力学はこれまた難しい。これこそ、会社の倒産を招き経営者が胃を壊す理由だ。

 1973年、需要と供給の問題がランニングシューズの業界を直撃した。全世界で突如ランニングシューズが求められ、供給が追いつかなくなり、空回りしていった。大きな在庫のリスクを抱えることなく、供給を引き上げる解決策は誰も思いつかなかった。

 アディダスやプーマも同じ問題を抱えていたが、それは気休めでしかなかった。何せ私たちは大きな借入金を抱え、崖の縁を歩いていたのだ。シューズの配送が遅れたら借入金の返済が間に合わなくなる。返済が間に合わなければ、これ以上借り入れができなくなり、次の注文が遅れてしまうことになる。

 しかも最悪なことが起きた。港湾労働者のストライキだ。私たちは至急、日本ゴムに新たな発注をした。ジェット機の燃料は折半したが、市場に製品が間に合わないよりはマシだった。

 1973年の売り上げは50%上昇し、480万ドルに達した。この数字を最初に見た時、私は足がすくんだ。ついこの間までは8,000ドルだったはずなのだ。だがこれは祝福すべきことではない。訴訟や供給の問題に挟まれ、いつビジネスが立ち行かなくなってもおかしくないのだ。

 その年の秋、私はアイディアを思いつき、契約している大手の販売店全店にこう呼びかけた。大量かつ返品不可の発注を半年前に出してくれたら、7%の割引をするという鉄則にサインしてほしいと。こうすれば、発注から発送までのリードタイムを長く維持でき、配送の回数も減り、キャッシュバランスも維持しやすくなる。しかも大手販売店からの長期の委託を得たとなれば、より多くの融資をもぎ取れる。

 販売店は怪訝に思っていたが、私は必死で説得した。年成長率の限界を破ることができるかもしれないと。それでも彼らは動かない。何度も何度も「この業界のことがわかっていない。このアイディアは失敗する」と言われた。だが、いくつかの目を見張るような新製品を発表すると、交渉は俄然、優位になった。やっといくつかの販売店が契約してくれて、程なく反対したり態度を保留にしたりしていた店も参加を熱望するようになった。

 

 



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