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【要約】実力も運のうち:マイケル・サンデル教授

実力も運のうち 能力主義は正義か?

作者:マイケル サンデル

実力も運のうち 能力主義は正義か?

作者:マイケル サンデル


要約

「不正人試は正しいか?」

なぜ、エリートたちは貧困層を見下すのか。その理由こそが新著の核心であり、“学歴偏重(へんちょう)主義”が根底にあるという。

<不平等が増すにつれ、また大学の学位を持つ者と持たない者の所得格差が広がるにつれ、大学の重要性は高まった。大学選択の重要性も同じように高まった。…いまでは、学生は自分が入学できる最もレベルの高い大学を探し出すのが普通だ。子育てのスタイルも、とりわけ知的職業階級で変わった。所得格差が広がれば、転落の恐怖も広がる>(P.25)

<有名大学の学位は、栄達を求める人びとの目には出世の主要な手段だと、快適な階級に居座りたいと願う人びとの目には下降に対する最も確実な防壁だと映るようになった>(P.25)

能力主義は差別を解決しない」

社会的な分断の原因として“能力主義”があるというサンデル教授。そもそも能力主義とは何かを説明するにあたって、徒競走を例に挙げてこう語る。 「徒競走に例えると、成功している多くの人々はこう考えます。“みんな同時にスタートして自分が勝った。自分が一番速かったのだから優勝は自分だ”。しかし他の人々は“いや、それは公平な競争ではない”と言います。“スタートの時点で、コーチの指導を受けられた人がいるのはどうなのか“という理由です。 例えば元から足が速いという才能や練習できる機会、コーチの指導、栄養、性能のいい運動靴…。徒競走に勝つ要因において、努力以外の要素もあります。 もし私がそのレースで勝ったのなら、みんなで優勝賞品を分かち合う義務があると考えるでしょう。この勝利を自分だけのもの、自分自身の努力の結果だとは思わないからです」 裕福な家庭では生まれながらエリートになるためのレールが敷かれているため、不平等な世の中になっている。そのうえ、能力主義で守られたエリートは、貧困層を見下しているというのだ。

能力主義の理想は不平等の解決ではない。不平等の正当化なのだ>(P.180)

能力主義は平等な主義ではないため、当然差別が解決できるわけがないのだ。

能力主義はステルス差別を生む」

「能力も運のうち」

なぜ、エリートたちは貧困層を見下すのか。その理由こそが新著の核心であり、“学歴偏重(へんちょう)主義”が根底にあるという。

「絶対平等という悲喜劇」

 

「最初からいろいろ持ってる人たち

 

結論と上級国民の世界

マイケル・サンデル教授が説く、「エリートは苦しんでいる人々を見下している」

結論何が言いたいのかというと、サンデル教授は貧富の格差、階級は肯定しています。

能力主義の理想は不平等の解決ではない。不平等の正当化なのだ>(P.180)

人間が社会を構成し、生きている結果、様々な格差は必ず生じます。格差を肯定する社会では当然、貴族のような上級国民を生み出してしまうのです。このことについては否定ができませんので、肯定しています。

そのかわり、彼らに対して、そのような階級にあることを自覚させ、より大きな共同体に属しているということをわからせろというのがこの本の主張になります。

そのためには、議論しかないと。

いかに自分が運が良く、恵まれた存在であるかを自覚させるべきだと言っているのです。

上級国民を孤立させてはいけないのです。

 

「誰もが社会に貢献する何らかの力を持っています」
サンデル教授「誰もが社会に貢献する何らかの力を持っています」
新著『実力も運のうち』でもこのように語っている。

能力主義エリートは、自らが提唱する能力主義社会に内在する侮辱に気がつかなかったのだ>(P.225)

なぜ、エリートたちは貧困層を見下すのか。その理由こそが新著の核心であり、“学歴偏重(へんちょう)主義”が根底にあるという。

<不平等が増すにつれ、また大学の学位を持つ者と持たない者の所得格差が広がるにつれ、大学の重要性は高まった。大学選択の重要性も同じように高まった。…いまでは、学生は自分が入学できる最もレベルの高い大学を探し出すのが普通だ。子育てのスタイルも、とりわけ知的職業階級で変わった。所得格差が広がれば、転落の恐怖も広がる>(P.25)

<有名大学の学位は、栄達を求める人びとの目には出世の主要な手段だと、快適な階級に居座りたいと願う人びとの目には下降に対する最も確実な防壁だと映るようになった>(P.25)

現在アメリカでは国民の3分の2が4年制大学の学位を持たず、日本でも大学への進学率は約半数となっている。 「私たちは、社会で生きる大半の人が、大学の学位を持たない事実を思い出す必要がある。私は、大学を“能力主義によって人々を選別する機械”にすべきではないと考えます。それは学位を持たない人を除外するだけでなく、大学教育があるべき姿を誤解させることにつながるからです。 本来、大学教育は教え、学ぶ場所であり、生徒にとって発見の時間であるべきです。自分の情熱や関心がどこにあるのか、知的関心をどこに向かわせるのかを発見する場所なのです」 世間には、大学の学位を持たず成功を得られない人もいる。そういった人々について、サンデル教授はどのようなメッセージを伝えるべきだと考えているのか。 「私ならこう言うでしょう。誰もが社会に貢献する何らかの力を持っています。そして社会に住む全ての人は、誰かの労働による社会貢献に頼っている。その貢献の対価が多すぎるウォール街の銀行家でも、あるいはみんなの生活をより良くする単純な仕事であっても、私たち全員にとって、生活を生きがいのあるものにしてくれる、貴重で重要な貢献なのです」

 

要約
能力主義の弊害
ポピュリストの怒り

ナショナリズムの高まりと独裁的な人物への支持拡大が示すように、民主主義にとって危機の時代が訪れている。エリートに対し、労働者階級などのポピュリストは怒っている。人種的・民族的・性的な多様性に対する反発や、グローバリゼーションとテクノロジーの急速な変化がもたらした困惑と混乱も、根底にあるだろう。

この数十年にわたる労働者階級の経済的、文化的地位の低下は、主流派の政党とエリートによる統治手法の帰結である。現前のポピュリストたちの怒りは、歴史的規模の政治的失敗への反応と言える。

失敗の核心は、市場主導型のグローバリゼーションにより不平等を拡大させてきたことにある。不平等の拡大には、労働者の再教育や、受けやすい高等教育、多様性の許容によって対処してきた。

しかしもはや限界である。才能があれば出世できるという「出世のレトリック」は、いまや虚しく響いている。貧しい家庭に生まれたアメリカ人は、大人になっても貧しいままであることが多い。

能力主義の倫理は、勝者にはおごりを、敗者には屈辱と怒りを生み出す。こうした感情が、エリートに対するポピュリストの反乱の核心となっている。

能力の道徳の歴史

能力に基づいて人を雇うことは本来悪いことではなく、正しい行為であるはずだ。それでは能力主義の何が悪いというのだろうか。

自分の運命は自分の能力や功績(メリット)の反映だという考え方は、西洋文化の道徳的直観に深く根付いている。神は、人間の善に褒美を与え、罪を罰するのだ。

能力や功績の問題は、救済をめぐるキリスト教の議論において立ち現れた。功績による救済はすべて神の恩寵の問題であるという反能力主義が、天職における労働という考え方を生み出した。あらゆる者が天職について働くよう神に召されているのだから、その召命に従って熱心に働くことが救済のしるしとされた。

能力や功績をめぐる議論は、救済をめぐる議論だった。それは、現世の成功をめぐる議論にもつながっている。成功を収めた人々は自力で獲得したのか、それとも自力では制御できない要因によるのだろうか――。成功に対するわれわれの態度は、神の摂理への信仰と無縁ではないのだ。

このような摂理主義は、徹底した支配と制御の倫理を称賛し、能力主義的なおごりを生み出す。おごりは、リベラルで進歩的な政治の際立った特徴でもある。そして、アメリカが偉大なのはアメリカが善良だからという、国家に当てはめた能力主義的な信仰につながっていく。

出世のレトリック

成功にまつわるわれわれの見解は、救済に対する考え方と同じだ。すなわち、成功とは幸運や恩寵の問題ではなく、自分自身の努力によって獲得される。

 

能力主義はエリートに対するポピュリストの反乱を引き起こし、トランプの支持層は広がり、大統領選勝利に至った。
要点2
学歴偏重主義は社会的な分断を生んだ。リベラルな視点からの能力主義への対抗も不十分である。
要点3
選別装置と化した大学は、適格者の中からくじ引きで入学者を決め、道徳教育を拡大するのも一案だ。労働者の尊厳を守るためには、給与の減税を図るとともに、金融取引に対する課税を強化することが有効である。

 

ハーバード白熱教室マイケル・サンデル教授「人生は親ガチャ」「『努力と才能があれば何にでもなれる』は、本当に正義なのか?」
http://hamusoku.com/archives/10394360.html

 

ハーバード白熱教室マイケル・サンデル教授「『成功する人は努力をしている』という価値観は、成功していない人は努力していないとレッテルを貼られ尊厳を奪われることになる」
http://hamusoku.com/archives/10379318.html

 

「親ガチャに外れちゃったよ」

昨今、学生たちの会話に耳を傾けていると、時折そんな声が聞こえてくるようになった。オンラインゲームで希望のアイテムを入手するための電子くじシステムを「ガチャ」という。もともとは店舗などに置いてある小型の自動販売機で、硬貨を入れてレバーを回すとカプセル入りの玩具が無作為に出てくるガチャガチャが語源である。そのシステムに自分の出生をなぞらえたのが親ガチャである。

ガチャでどんなアイテムが当たるかは運任せである。ときには一発で大当たりすることもあるが、いくら課金しても弱いアイテムしか入手できないこともある。自分の出生もそれと同じことで、私たちは誰しもどんな親の元に生まれてくるかを選べない。そこには当たりもあれば外れもある。自分の人生が希望通りにいかないとしたら、それはくじ運が悪くて外れを引いてしまったからだ。親ガチャにはそんな思いが込められている。

近年の相対的貧困率(世帯の可処分所得の中央値の半分に達していない層の割合)に目を向けてみると、男性の場合、高齢層ではやや改善が見られるのに対し、若年層では逆に悪化している。女性の場合、男性ほど極端ではないものの、それでもやはり若年層で悪化している。

その貧困の要因の一つといえる失業も、その多寡は若年層になるほど学歴による差異が大きくなっている。またその学歴は幼少期からの家庭環境に左右され、さらにその家庭環境には教育に投資できる親の経済力が反映している。事実、全国一斉学力テストの平均点は親の年収と相関しており、子ども自身による勉強時間との相関度よりも強い。

このような状況を反映して、いまの日本には「努力しても報われない」と諦観を抱く若者たちが増えている。統計数理研究所が実施している「日本人の国民性調査」で、1980年代と2010年代のデータを比較すると、この傾向は若年層の男性でとくに著しい。

人生はなかなか思うようにいかない。生まれたときから定められている宿命のようなものだ。自分の努力で変えることなど出来ようもない。そんな思いを抱えた学生たちが増えていてもおかしくはない。親ガチャはこのような時代精神が投影された言葉といえる。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/87009?page=5


 

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