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【要約】『ビジネスエリートの必須教養 世界5大宗教入門』山中俊之 著

『ビジネスエリートの必須教養 世界5大宗教入門』

世界94カ国で学んだ元外交官が教える ビジネスエリートの必須教養 世界5大宗教入門

山中俊之 著

<内容紹介>

アメリカ・ヨーロッパ・中東・インドなど世界で戦うビジネスパーソンには、現地の人々と正しくコミュニケーションするための教養が欠かせない。そして、哲学・歴史・美術・音楽・語学…これら教養の土台となっているのが実は宗教だ。世界94カ国で活躍してきた元外交官が教えるビジネスで使える5大宗教の基礎知識。

要約

なぜ、宗教がビジネスエリートの必須教養なのか?

ビジネス、政治や経済、英語をはじめとする語学、日本や世界の歴史、美術、音楽、文学、哲学、映画や演劇などのエンターテインメント、国内や海外の旅行や世界遺産めぐり、食の楽しみ。

 今挙げたもののどれかに、あなたも何らかの興味を抱いていると思います。仕事や趣味を通して、実際にかかわりを持つトピックもあるでしょう。

 これらについて知識を蓄え、その知識を単なる情報ではなく自分のものにし、自分の言葉で語れる人は、「教養がある人」とみなされます。

 世界で活躍するビジネスエリートはみな教養がある人ですし、逆に言うと教養がなければ活躍することはできません。残念ながら「まあまあ仕事のできる人」で終わってしまうのです。厳しい言い方になりますが、「まあまあ仕事のできる人」とは、相手にとっては単なる「取引先」です。

 商談が終わった後の食事会、懇親のためのパーティーでは「特に話すことのないつまらない人」としてスルーされてしまい、人間関係が構築できないでしょう。

 これでは大きな仕事をするのは難しいし、将来的にパートナーシップも築けません。

 何より、仕事を離れた「あなた個人」として、魅力ある存在にはなれないのです。商談はもちろん、雑談が抜群にうまい――これが教養がある人の条件と言っても良いでしょう。

 雑談を通じて、人間としての深みをさりげなく提示して、「また会いたい」「仕事抜きでもつき合いたい」と思わせることが、これからのエリートの前提条件になります。

教養とは、世界で活躍するための「パスポート」である

 「雑談は教養である」と言うと、違和感を覚える人がいるかもしれません。

 「雑談というのは、営業や接客のスキルであって、グローバルエリートの前提条件ではない」と感じる人もいるでしょう。

 しかし教養とは、世界で活躍するためのパスポートのようなものです。すなわち、それがないとそもそも人の輪に入れない。お呼びではないのです。

 日本人同士であれば、善し悪しは別として「A大学出身です」と言うと、その人の知的レベルがなんとなく伝わります。あるいは「一流企業勤務=教養人」とみなされることもあるでしょう。

 ところが世界のエリートが集まる場では、あなたが出身大学を言ったところで、相手にはそれがどんな学校であるか、わかりません。企業名にしても、それだけでは知的レベルの証明にはなりません。

 ご存知の方も多いと思いますが、英タイムズ・ハイヤー・エデュケーションによる「THE世界大学ランキング2019」では、東京大学は四二位。アジアでランクが一番高い中国の清華大学が二二位ですから、日本の大学は世界の一流校にはほど遠いのが現状です。

 外国人の前で、日本では一流とされる大学の名を出したとしても「ふうん、そういう大学が、この世界の片隅にあるのですね」と軽く流されてしまいます。

 そもそも世界では、出身大学以上に、修士や博士課程で何を学んだかが問われます。日本の出身大学名にこだわっていると世界の基準から外れた痛い人になってしまいます。

 仮に仕事抜きだとしても会ってみたい人、それが教養のある人です。教養さえあれば、

 「この人は信頼できる人だ」
 「面白そうなことを話す人だ」

 そう思ってもらうことも、十分に可能です。

 ケンブリッジ大学での連日のランチやディナーの席での会話は相手の専門分野から始まって、芸術、文化、歴史、スポーツ、映画の話題が中心。幅広い教養がないとまったく会話に入っていけず相手にされません。

 外交やビジネスの現場でも、本当に関係を構築するのであればディナーやランチといった社交が伴います。実は、そのような場でビジネスの話ばかりしていると幅の狭い人間と思われて、次の仕事がこなくなるかもしれません。豊かな教養がにじみ出るような、魅力的な会話が不可欠です。

 「モノを売る前に自分を売れ」というのが営業の王道のようにいわれていますが、大きなビジネスであってもそれは同じ、いや、それ以上に重要です。あなたの「会社」の取引内容より、あなたという「人」に興味を持ってもらい、人間関係を構築できないと、新しいビジネスは生まれにくいものです。

 ケンブリッジ大学は、世界でノーベル賞受賞者を多く輩出している大学の一つですが、常に異分野・異文化の人間が交流・議論していることがその理由だともいわれています。異分野・異文化についての知見は、まさに教養であり、斬新なイノベーションは幅広い教養に由来するのです。

 その意味で、雑談力とは世界で働く人の武器であり、教養はその前提となる知的資本であると言えるでしょう。まさに世界で活躍するためのパスポートのようなものです。

 「いやあ、私は海外出張があるような仕事ではないし、職場に外国人もいない」

 そのように受け止める人がいるかもしれませんが、日本だけで完結するビジネスは消えつつあります。昔ながらの製造業であっても原材料は世界のあちこちからやってくるし、市場は世界中にあります。

 廃棄物の処理から従業員の休みの確保まで、働く人は誰もがグローバルスタンダードと無縁ではいられません。世界中からありとあらゆるいいものをかき集め、広い意味での「エコシステム」を構築していく。これが今後の企業のあり方ですから、教養という異分野・異文化の物事をつなげる力はますます必要となってきます。

宗教は「教養の土台」である
 では、どのようにすれば教養が身につくのでしょうか?

 私は宗教こそ、教養の大きな土台の一つだと考えています。そもそも宗教とは何でしょうか。

 宗教(Religion)は、もともとラテン語のReligioが語源です。これは、再びという意味のReとつなぐという意味のligioという要素からできており、「再びつなぐ」という意味になります。何と何を再びつなぐのかというと、神と人間を再びつなぐのです。

 このような語源からもわかる通り、宗教とは神または人智を超越した存在を中心として、教義や戒律を定めたものと定義できるでしょう。

 さて、そのような宗教がなぜ「教養の土台」なのでしょうか。

 世界の様々な社会、人の立場になって考え行動するには、その社会の歴史や文化、価値観を知ることが極めて大切になります。これは海外で成功した人、海外赴任で責任ある立場にあった人であれば誰でも同意していただけるでしょう。この歴史、文化、価値観の基底にあるのが宗教であり、世界レベルの教養を身につける近道なのです。
 

物事のあらゆる側面で宗教の影響が見られる
 あなたの仕事がメーカーであれ、小売りであれ、不動産業であれ、世界の政治経済の影響なしに成立する仕事はありません。そして、政治経済の動きには、宗教が影響しているのです。

 たとえば、アメリカの大統領選には、候補者がキリスト教のどの宗派の票を得るかが大きく影響していますし、アメリカの動向は世界の政治経済に影響をおよぼします。そして、多くの日本人が「現代的でカジュアル」というイメージを抱くアメリカは、実は世界でもトップレベルの宗教的な国家なのです。キリスト教についての知識がないとアメリカ人とのつき合いやビジネスは地雷の埋まった野原を歩くようなものになります。

 また、日本人の多くは「中東には紛争が多いようだが、イスラム教はよくわからない」と漠然と捉えています。もしあなたが、「イスラムは遠いアラブの石油の国の人の話。自分にはあまり関係ない」と思っているなら、それは危険です。

 なぜなら、今後、東南アジアはビジネスやインバウンドで日本とますます関係が深まっていくはずですが、マレーシアの国教はイスラム教ですし、インドネシアにも二億人以上のイスラム教徒がいます。また、ご存知の通り日本の石油輸入の多くはイスラム教徒が多い中東に依存しています。中東での混乱は、石油やガソリンの価格に跳ね返り我々の生活を直撃します。

 さらに各種統計によると、出生率が相対的に高いイスラム教徒は、将来、世界最多の信者を持つ宗教となる可能性が高いのです。また、欧米で起こっているイスラム排斥の気運が排外主義的な政策を生み、EU各国の移民や難民の問題、イギリスのEU離脱などにもつながってきています。すなわち、世界は相互に緊密につながっています。そして、このようなつながりが見えないと判断を誤ります。この緊密につながった世界を、イスラム教を知らずして理解することは不可能でしょう。

 教養がある人はたいてい語学力も備えており、英語は今やビジネスの必須項目でもあります。そして「語学を学ぶにはその国の文化を学べ」といわれますが、国際語として使われている英語にキリスト教由来の言葉やフレーズが非常に多いことはよく知られている通りです。つまり、聖書について知っているだけで、英語を学ぶ上では大きなアドバンテージになります。

 逆に言えば、欧米社会ではキリスト教について知らないと本当に評価される英語話者にはなれません。日本人の英語がなかなか上達しないのは、キリスト教への理解が不足していることが関係していると私は見ています。

 さらに、西欧の音楽、美術、文学の多くは、キリスト教からスタートしています。なぜなら、キリスト教を普及させ、いかに人々を啓蒙するか、社会はキリスト教をいかに受け入れるのかといった葛藤が西欧の歴史をつくってきたためです。その目的で生まれたのが、音楽や美術なのです。カトリックの教会が描かせた数々の宗教画こそ西洋美術の一つの出発点ですし、西洋の音楽は賛美歌や聖歌が発展したものです。

 また、「自分とは何か」「生きる意味とは?」という問いは古典文学や哲学からごく最近の漫画やアニメ映画にまで脈々と流れる不変のテーマですが、実はこれこそ宗教の誕生や宗教観と大きくかえていくといわれている最新テクノロジーも、実は宗教と無縁ではありません。

 AIからゲノム編集、安楽死まで最先端の科学技術の開発には「人間とは何か?」という問いがついて回る以上、これも宗教観によって変わってきます。

 よく知られた例を挙げれば、「全知全能の神が人をつくった」という大前提が刷り込まれているキリスト教徒やイスラム教徒のなかには、神でもない人間が人の形のロボットをつくることに抵抗を感じる人もいます。

 鉄腕アトムからペッパーまで、日本人が「かわいい」というシンプルな理由で人型ロボットをつくり出せたのは、人と神(仏)の距離が近い日本的宗教観が背景にあるからだとも言えますし、「自分は無宗教だ」と考える今日の宗教観が影響しているとも言えます。

 「イスラム教徒は豚を食べない」というトピックばかり注目される傾向がありますが、私たちがごく日常的に接している食文化や食習慣にも、宗教は影響をおよぼしています。少子高齢化にも宗教は関係していますし、こうやって例を挙げていくときりがないほどです。

 教養にも、科学にも宗教が深くかかわっている。これは、次のようにイメージすると、わかりやすいと思います。

 「宗教を軸とした歴史という大地に、政治、経済、社会、文化、科学という様々な花が咲いている」

 それだけに宗教は奥深く、おそらく一生かけて研究してもし尽くせないでしょう。

 

世界九四カ国を知る元外交官のビジネスコンサルタントだから伝えられること

 ビジネスに役立つことはもちろん、絵画や音楽、文学、食、海外旅行や世界遺産めぐりも、宗教を知っていればより深く楽しめるようになります。そして何より、日本人として自国の宗教観をどう説明すればいいかをしっかりとお伝えしていきたいと思っています。

「私は無宗教です」は、世界では非常識な発言
 あらゆるものの土台となる宗教ですが、日本では「宗教の話? いや、私はちょっと」と腰が引けてしまう人が多いのではないでしょうか。

 たとえば、商談やプレゼンなど、ビジネスの“本題”が終わった後、会食やパーティーの席で、あるいはランチなどの雑談の場で、ふと宗教の話題が出たとします。

 「いやあ、私は無宗教でして」

 あなたは何気なく、このように答えていませんか?

 無宗教だと答える日本人は、決して珍しくありません。日本人の多くが「自分は特定の信仰を持たず、無宗教である」と回答しているという統計もあります。

 よって、あなたの会社や取引先が日本人のみ、もしくは日本文化を知り尽くしている人だけなら、この答えはごく自然に受け入れられるし、何も問題にはならないはずです。

 ところが、外国人がいる場でこの発言をしたら、相手はよほどの日本通か無神論者の場合を除き、間違いなく違和感を抱きます。

 驚くことに、あなたがいきなり「私は善悪の区別もできない、非常識な人間なんです」告白したかのように受け取る相手も、世界には少なからずいるのです。

 あるいは、「無宗教ということは、神についてどのように定義しているのか。無神論についてはどうお考えだろう? ニーチェをどう捉えているのか、ぜひ意見を伺いたい」と難解な議論をふっかけられて、答えに詰まる可能性もあるでしょう。

 しかし、日本人は決して無宗教ではありません。

 なぜなら、多くの日本人が初詣で神社仏閣でお祈りをしているといった事例に加えて、たとえば、「ありがとう」「いただきます」といった誰もが日常的に口にする言葉さえ、仏教など宗教との関係があるからです。

 言葉を変えれば、人がそれぞれ持っている「価値観」をつくる大きな要素が宗教です。その意味で、宗教はすべての人にかかわりがあるものと言えます。相手の価値観がわかることで相互理解が深まり、対立も少なくなることでしょう。

ユダヤ教

ビジネスマインドあふれる「タルムード」
 「ユダヤ人は大金持ちで成功者が多い」
 「ユダヤ人は優秀だ」

 こんなイメージを抱く人もたくさんいますし、実際にたくさんの成功者がいます。スターバックス、リーバイスの創業者はユダヤ人(ユダヤ系を含む)ですし、アインシュタインユダヤ人。

 世界人口のわずか〇・二五%のユダヤ人が、ユダヤ系を含めるとノーベル賞受賞者の二〇%を占めているといわれています。『フォーブス』の長者番付で常に上位を占めているのもユダヤ人です。

 ユダヤ人がこれほどまでに優秀な理由は二つあると、私は考えています。

 一つは、ヨーロッパで圧倒的に少数派であり、キリスト教徒でないために差別されていたから。政治家や官僚など、その国のメインストリームに行くことは難しく、ビジネスや金融、科学や芸術など自らの才覚で人生を切り拓こうとしていたためでしょう。

 そしてもう一つ、とても大きな理由はモーセが伝えたユダヤ教徒の守るべき聖典の一つとされているタルムードの存在です。

 宗教にはそれぞれ聖典がありますが、タルムードは他の宗教に比べて現実世界における成功や繁栄につながる内容がかなり多くあります。「ビジネスパーソンの指南書」たる要素すらあると感じます。

 たとえば「学ぶことが大切だ。常に新しいことを学びなさい」などといった教えがあり、なにより特徴的なのが、約二〇〇〇年も前から生産性について述べられていること。「時間当たりの成果をちゃんと意識しなさい」と明記されており、驚きます。

 差別されてメインストリームに行けない時点でいじけてしまいそうなものですが、ちゃんと学んで成果を上げる、これはタルムードのおかげと言っていいのではないでしょうか。

 アメリカやイスラエルでスタートアップが多いのも、さもありなんです。他の宗教にも優れた教えがたくさんありますが、現代のビジネスパーソンに直結する教えがあるのはタルムードが一番と言えそうです。

ユダヤ教のお金感覚とは?

 旧約聖書レビ記申命記には「異邦人に貸しつけるときは利子をつけても良いが、あなたの兄弟から利子をとってはいけない」という旨の記述があります。これは、親戚とユダヤ人以外からは利子をもらっていいということ。

 キリスト教では利子は認められておらず、中世のヨーロッパ社会では、キリスト教徒がお金を貸して利子で儲けるというのは良くないこととされていました。

 そこでユダヤ教徒が金融業を担ったという歴史から、「お金に強いユダヤ人」が生まれたと言われています。

 「消費はいけない。投資をしなさい」とあるのも特徴的だと思います。

ユダヤ教で押さえるべき戒律
 律法がしっかりとあり、「ルールを守りなさい!」という主張の強さでは、ユダヤ教は5大宗教のうちトップと言っていいでしょう。

 ユダヤ教には律法(ミツヴァ)が六一三あり、そのうち、「してはならない」というのが一年の日数と同じで三六五あります。それを厳しく守っている人たちとつき合うには、NGポイントを押さえておくことが重要です。

 1 食事の戒律に気を遣わないのはNG

 イスラム教がルールに厳しいことはよく話題になりますが、日本のビジネスパーソンユダヤ人の取引先を日本でもてなすとしたら、イスラム教の人よりも難しいのではないでしょうか。

 「カシュルート」と呼ばれる食事の規定ではヒレ、ウロコのないシーフードはNG。肉と乳製品を同時に使ったものもNGなので、チーズとサラミを使ったピザやチーズバーガーは無理です。

 血の摂取禁止、蹄が完全に分かれ反芻する(食物を口で咀嚼し、反芻胃に送って部分的に消化した後、再び口に戻して咀嚼するという過程を繰り返すこと)四つ足の動物は食べて良いなどの規定もあります。そのため反芻しない豚はダメということになります。

 2 「土曜日=安息日」と知らないのはNG

 休日はビジネスパーソンにとって影響が大きく、スケジューリングの際は注意すべきです。安息日(シェバト)は土曜日で、イスラエルでも金曜日の夕方から土曜の夕方までの二四時間は完全に休み。ありとあらゆるものが止まるので、出張の際にはくれぐれもご注意を。

 この安息日を単に休みの日と捉えてはいけません。安息日において大切なのは、「日常生活から離れ、本質的なことを深く考えること」なのです。安息日の存在にも、ユダヤ人が世界で活躍している要因があるようです。

 3 割礼について無知なのはNG
 聖書であるモーセ五書には、「男子は割礼をすべし」と何度も出てきます。男子の割礼はユダヤ教徒として必須のものと捉えられています。割礼について否定的な発言は絶対に避けるべきです。
 

神から人へ

宗教と科学が未来のカギを握る
 国際的な場で、現在の世界が抱える問題や未来の課題について論じるとき、外国人や異なる宗教を信じる人とやりとりすることがあります。その際は、宗教の知識を土台に、自分ならではの意見を伝えることが極めて重要です。同時に、相手の立場、歴史観、宗教観に寄り添うことができてこそ、世界における教養人となります。

 「現在の問題や未来の課題に、宗教は関係ないのでは?」と思う人もいるかもしれません。

 確かに進化論や相対性理論が提唱され、二一世紀はゲノム編集や人工知能など、人類はまさに「人智を超えた神の領域」と思われていたところに足を踏み入れつつあります。もはや人間ができないことなど存在せず、宗教は神話の世界に封じ込まれるかのようにさえ思えます。しかし、私の意見は異なります。

 宗教は科学など存在しない古代に起こり、中世までは「人智を超えた世界」と「人間がわかっている現実世界」の間に、まだまだ距離がありました。

 だからこそ人々は、神を恐れながらも尊重していたのでしょう。落雷とエネルギーの関係もわからず、万有引力の法則もなかったら、その答えを宗教に求めても不思議はありません。また、「自分とは、生と死とは? 災害はなぜ起こるのか?」という人類共通の課題に答えを出すものは宗教しかありませんでした。

 当時、必要不可欠だった宗教はそれぞれ系統立てて整理されながら、世界へと広がっていったのです。

 近代になると科学が進歩し、様々な解けなかった謎が解けていきます。なぜ嵐が起きるのか、なぜ病にかかるのか、合理的に説明できることが増え、科学によって人類共通の課題への答えが出されることで宗教のニーズが相対的に下がっていきました。

 民主主義の広がりによって、政治が宗教の権威を借りないことも多くなり、政教分離の観点から、宗教を用いた政治はむしろ忌避されるようになったのです。

 宗教の重要性が薄らぐ流れは、つい最近まで続いていたと思います。

 ところが二一世紀になった今、科学があまりに進歩していくなかで、なおざりにされてきた倫理や哲学が改めて問われるようになってきています。

 「科学技術で人を誕生させることができるとしても、本当にやっていいことなのか?」
 「医学によって命を永らえることと、満たされた死を迎えることは両立するのか?」

 まさにこうした問いが突きつけられています。私たちはあたかも万能なもののように科学に魅了されて近代を生きてきました。しかし、科学はかなり進歩したとはいえ、災害や死の謎について完全に解き明かしたわけではないのです。これからは、改めて宗教の役割が見直される時代がくる――私はそのように考えています。

 科学ばかりではありません。絶えることのない紛争、拡大し続ける経済格差についても、科学や論理ではなく、宗教が持つ倫理観や道徳が解決のヒントを与えてくれる、そんな気がします。

 ただし、これから述べるのは、今わかっている事実に私の見解をつけ加えているにすぎません。

 教養に知識は必要ですが、知識だけではグローバルな教養は身につきません。大切なのは読者のみなさんが、宗教をはじめとした知識をもとに批評的に事象を考えること。そして、その思考訓練によって、「独自の見識」を持っていただくことです。

 知識に裏打ちされた自分の意見をしっかりと持つことは、ビジネスパーソンとしてのブランディングにもなり、仕事上のリアルな局面でも役立つでしょう。

AIは人を超えるのか?
 私たちの生活のなかに、すでにAIは溶け込んでいます。たとえば、グーグルアシスタントやアップルのSiri、アマゾンのアレクサは人工知能ですし、テレビや掃除機などの家電にもAIが搭載されています。自動車業界もAIモデルの開発を進めており、自動運転は技術的にすでに可能になっています。

 これは世界的な動きですが、そのなかで日本人はやや特殊といわれています。それは、「ヒューマノイド」といわれる人間と同じ姿形をしたAI搭載の人型ロボットを好む点です。

 たとえば、大阪大学石黒浩教授はタレントのマツコデラックスにそっくりな「マツコロイド」や自身に似せたヒューマノイドを製作しています。私も日本科学未来館ヒューマノイドを見て、「限りなく人に近づける」という、そのこだわりように驚嘆しました。

 日本人が抵抗なく人間と同じものをつくるのは鉄腕アトムの影響もあるかもしれませんが、仏教・神道の影響が非常に大きいと私は考えています。

 ユダヤキリスト教の価値観で言うと、人間と機械はまったく違うもの。この世に存在する動植物も人も神のつくったものですが、なかでも人間は特別な存在です。動植物を含めた自然や機械は人間が支配する対象であり、「支配すべき存在を、神がつくりたもうた人間に似せるなんてとんでもない!」となり得るのです。

 ゆえにヒューマノイドは、ユダヤキリスト教文化から見るといささか気持ちが悪く、抵抗感が強いこともあります。だから創作の世界で人型ロボットをつくるときも、欧米ではサイボーグという金属的な造形のものが比較的多いのでしょう。

 そういえばAI機能に特化しているグーグルホームやアレクサは「機械そのもの」という非常にシンプルな形をしています。仮に日本の会社で日本人が開発したら、かわいらしい人間型であったかもしれません。

 AIについてはしばしば「神の領域に到達するのか」という議論があります。人間の能力を超え、多くの仕事はAIが担うようになると盛んにいわれていますし、優れた頭脳を持つ囲碁や将棋のプロが、AIに敗北した例もあります。

 私の個人的な意見を言えば、「AIが神の領域に到達する」というのは、失礼ながら科学信奉者の思い上がりではないでしょうか。

 確かに、データ分析やそれにもとづく一定の判断という面では、AIは人間の脳を凌駕するかもしれません。しかし、人間の心や感情まで科学の力でつくり出せるかと言えば、甚だ疑問です。

 科学の専門家ほど、「科学は神を超える」というのは言いすぎだとわかっているのではないでしょうか。人工知能をつくり出せるだけで「神」としてしまうのは、あまりにも神の力、言葉を変えれば人智を超えた力を矮小化しています。

 イスラエル歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの世界的ベストセラー『ホモ・デウス』(河出書房新社)は、これからの社会はヒトより優れたアルゴリズムによる「データ至上主義」に支配され、それを生み出せるものは「超人=ホモ・デウス」になると予言しています。

 ホモ・デウスを神と同一視しないまでも、このようなデータ至上主義の時代には、これまでの人間の存在範囲、能力範囲を超える情報があふれることになり、そこで判断を誤らないようにするのは、容易ではありません。

 人間のキャパシティを超えるデータの中で生きていくのであれば、宗教を含めた「人智を超えた存在」への理解が再評価されるべきだと私は考えています。

遺伝子研究で「才能」も買えるようになる?
 AIはどれだけ優秀でもあくまで機械であり、人間はいまだゼロから生命をつくり出すことはできません。しかし逆に言えば、ゼロは無理でもイチの生命をコピーし、編集するところまで科学技術は進んでいます。

 その代表と言えるのが遺伝子研究。難病治療などに役立つと考えられており、「人間の遺伝子を自由に編集する」といわれるクリスパー・キャス9という技術を発明した学者はノーベル賞候補だともいわれています。

 二〇一八年の終わりには、中国の科学者がゲノム編集によって「エイズウィルスへの抗体を持った双子の赤ちゃんを誕生させた」と発表して世界を揺るがせました。このニュースの真偽はさておき、遺伝子は生命のあり方を決める重要な指令のようなもの。

 「遺伝子改変が技術的に可能になったとしても、行っていいのか?」
 「生命のあり方という、言わば神の領域に踏み込むことは倫理的に許されるのか?」

 世界中の科学者、哲学者、政治家、宗教家が議論を重ねています。

 プロテスタントには「神から天職、才能を与えられた」という概念がありますが、しかし才能が科学でつくれるとしたらどうでしょう?

 「美しくて優秀な人間」「病気にならず、身体能力が高い人間」が遺伝子の改変によって誕生すれば、人は神から与えられるはずの能力を人為的に手にできるようになります。

 また、受精卵から人間であると考える宗教観を持つ人々は、人間のゲノム編集に反対する可能性もあります(現時点では私の知る限り宗教界からの強い反対はありませんが)。

 人為的とは、言い換えれば「お金の力」。最先端の遺伝子操作が高額なものだとすれば、豊かな人はお金の力で優秀で健康な子どもを生み、その子どもは高い能力を生かして成功し、子孫もますます豊かになるという連鎖が起きます。

 病気や怪我をしてもお金持ちであれば、ゲノム編集のような最先端技術で健康を取り戻せるかもしれません。そうなれば、「健康な天才ぞろいの富裕層」と「普通の人と弱い人からなる貧困層」が誕生するでしょう。

 かつて、ナチスは「優秀なアーリア人」をつくろうと、非道な人体実験を行いました。これは明らかに犯罪ですが、今後「科学の発展」の名のもとに、似たようなことが世界規模で行われる危険すらあります。これは科学者だけに任せておいて良い問題ではありません。

 このように遺伝子研究とは、宗教や倫理の問題ばかりか、私たちにとってより身近な社会的格差につながるという問題もはらんでいるのです。

 確かに、難病から救われる人が増えるのは素晴らしく、研究が進むこと自体は歓迎されるべきです。しかし、生態系への影響もあるでしょう。生物はお互いつながっているので、人類のあり方、地球のあり方すら変えてしまう可能性に配慮しなければなりません。

 これだけ科学が進んでいても、人間はゼロから生命をつくる技術を持っておらず、微生物すらつくり出せていません。いうまでもなく人工知能は生命ではなく、生命を持つクローンにせよ、今ある生命の複製です。iPS細胞は細胞をゼロからつくり出すものではなく、すでにあるものをもとにしています。まだまだ畏敬の念を抱くべき「神の領域」は残っているということでしょう。

 「人間とは何か」を真摯に問い、「人智のおよばない領域」に想いを馳せながら、私たち一人一人が科学と向き合っていく。それには、改めて宗教が必要とされるのではないでしょうか。

 

 

 

 

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