人として死んだオタク
オタクには二種類いると言われています。
「消費型オタク」と「生産型オタク」です。
「消費型オタク」は消費豚とも言われます。考えることを辞め、動物のように脊髄反射しかできなくなったオタクたちのことです。
-人間とは考える葦である-
考えることを辞めた人間は人ではなくなります。人として死んだオタクが近年急増しました。それは豊かさが失われたからなのかもしれません。辛い労働、厳しい現実から身を守るための防衛機能なのかもしれません。
かんがえるあし【考える葦】 パスカルの「パンセ」の中の言葉。「 人間は自然のうちで最も弱い葦の一茎にすぎない、だがそれは考える葦である」として、自然において脆弱ぜいじやくだが思考する存在としての人間の本質を表現したもの。
消費だけの人生が空しいという考えが多いようですが、私はそうは思いません。消費者がいるからこそ生産者が成り立つのです。
問題は動物化による消費者の劣化です。
質の高い消費者の育成こそが質の高い生産物を生み出すことに繋がるのです。
オタクの動物化現象
自分の好む萌え要素という記号に対してあたかも薬物依存者のように脊髄反射的な反応を示すようになったオタクの変容を(あるいはより一般に他者の欲望を媒介することなく自己完結的な欲求充足回路しか持たなくなる変容を)東浩紀はアレクサンドル・コジェーヴの表現を借りて動物化と呼んでいる。
十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉を発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレートな表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる。内気な男性が多かった当時のオタク界隈において、「萌える」のような繊細で婉曲な表現は重宝するものだった。
それがいつしか、「萌え〜」という単純なリビドーの叫びに変貌し、「○○たんハァハァ」「俺の嫁」といった表現に代替されるようになり、ついに豚の鳴き声にまで到達したのである!ブヒィ!
どうしてこうなったのだろう?
ひとつには、“インターネット空間で趣味ごとの棲み分けが進んだお陰で、よその誰かに恥じらう必要がなくなった”というのもありそうだ。しかしそれだけなら、わざわざ豚まで身を落とす必要もあるまい(「○○たんハァハァ」のような表現で十分である)。なにか、「俺って卑しいやつです」的な自嘲の念が含まれていればこそ、「ブヒィイイ!」が選ばれるようになったのか?
昔、自分のことをピュアで女の子思いだと信じたかったオタク達が、歳月の流れるなか、「俺の嫁」をとっかえひっかえしていくうちに、汚れた自分に気付いてしまって豚になってしまったのか?
それとも「口を開けて待っているだけで最優秀のコンテンツにアクセスできる」という現実を踏まえたオタク達が、「俺は、口を開けてエサを待っているだけの豚だ。ぶくぶく太らされた豚だ。だがそれがいい。」と自嘲半分・居直り半分の境地に至って豚になってしまったのか?
あるいは、メタ視線や考察的態度にうんざりした一派による、「なんにも考えずに楽しんで何が悪い!」という立場表明なのかもしれない。
確かなことは分からないが、ともあれ、美少女キャラクターへのパトスはまだまだ健在で、“豚野郎ども”の饗宴は続くのだろう。
動物化したオタクが多すぎる
日本の豊かさが失われると同時にオタクの動物化が顕著になりました。
サブカルチャーはそれまでは、ごく少数の天才のお遊びにすぎませんでしたが、徐々に大衆化の流れが押し寄せ、安価で作れて楽しめる作品が大量に作られ始めます。
私はひとくちアニメ化、アニメのファストフード化と呼んでいます。
近年は非常にこの傾向が強く表れ、いわゆる「スマホ太郎枠」のアニメが大量に生産されるようになってしまいました。
人類史に残るような名作は二度と生まれなくなって環境に慨嘆しています。
データベース消費
東が本論を提起した背景として、評論家・作家の大塚英志による物語消費の概念がある。
大塚は『物語消費論』で、ビックリマンシールやシルバニアファミリーなどの商品を例に挙げ、それらは商品そのものが消費されるのではなく、それを通じて背後にある「大きな物語」(世界観や設定に相当するもの)が消費されているのだと指摘し、主に1980年代にみられるこういった消費形態を物語消費と呼んだ。ここで「大きな物語(世界観・設定)」という意味で「物語」という語句を使うことは紛らわしいことから世界観消費といいかえられることもある。
東はこれを踏まえ、物語消費論でいうところの「大きな物語(世界観)」が「大きな非物語(情報の集積)」に置き換わり、その文化圏内で共有されるより大きな「データベース」を消費の対象とする形態をデータベース消費と名づけ、特に日本の1990年代後半以降のオタク系文化において顕著にみられるとした。
アニメやゲームといった“二次元”の世界から、少年少女が売られてくるのは今に始まったことではない。「コンテンツ消費」「二次創作」といったお題のもと、数え切れないほどの少年少女が、オタク界隈の消費者達によって買われ、消費されてきた。これからも、そうだろう。
同人誌即売会で取引*1される二次創作作品を見ればわかる通り、そうやって消費者集団の前に差し出された少年少女は、しばしば性的にも消費される。同人誌を売っている現場に行ったことのある人なら、年端もいかない少女が大きく股を開いている図像や、少年同士がねっとり絡み合っている図像を見たことがあるだろう。ああいうエッチなまなざしと想像力が、二次元村から売られてきた少年少女にはまとわりついている。
二次元村で少年少女をクリエイトしている人々も、最近は心得たもので、「どうせお前ら、こういうの好きだろ?」と気を利かせて、少年少女達を市場に送り出す。かわいいフリルやパンチラぐらいは朝飯前、誤解されそうな台詞や、ちょっとしたキャラ同士の掛け合いにも、近頃の“萌え豚ども”は目を光らせている。
データベース消費に関する記事
今求められるのは質の高い(見る目のある)消費者である
動物化したオタクは非常に厄介です。
いわゆる「イキリオタク」という存在は理性が働かず、脳死で見れるひとくちアニメに食いつきます。それは特に問題はないのですが、理性がないために、ネット上でイキってしまうのです。
多くのアニメ作品がありますが、ファン(信者)が不快すぎて逆に作品のイメージを損なう問題が起きています。
脳死で見れるファストフードアニメを絶品グルメのように称賛し、周りに強要してきます。
売れたから、正義そう信じずにはいられないのです。
なぜなら、売れているものが好きな自分が好きだから。自分もエクスタシーを感じちゃうんですよね。彼らは主体がないため、作品と同化するのです。俺TUEEEEEEE!!!!!!系アニメもそれと同じです。自己投影し気持ちよくなっているのです。
世界一売れている飲み物のコーラが世界一素晴らしい飲み物だとでも言うのでしょうか。
美食家は誰一人としてコーラが世界一おいしい飲み物だとは言わないでしょう。
世界一売れているお菓子がポテチだとしても、彼らはポテチが世界で最も美味しいお菓子だとは言わないです。
オタクは本来、何かに熱中し、探求する研究者のような人たちであったにもかかわらず、近年ではただのキモイ人の代名詞になってしまいました。
だから、オタキングこと岡田斗司夫さんは著書「オタクはすでに死んでいる」を書いたのです。
昔のオタクと今のオタクは別物です。
名称が同じなので、わかりにくいですが、全く異なる人種です。
オタクに限らず、多くの人が過酷な労働環境に疲弊し自分の頭では考えられなくなっています。
マスコミがこれがブーム!、これが面白い!と言ったら面白いんだと処理してしまう思考停止状態の人々ほとんどです。
その結果、情弱ビズネスやひとくちアニメが大量に生まれてしまい、質の高いものが生まれにくくなっています。
これだけ動物化したオタクが増え、また情報過多の時代に求められるのは生きたオタク。つまり、質の高い(見る目のある)消費者がキュレーションし、情報発信していくことが求められるのです。
キュレーションとは、インターネット上の情報を収集しまとめることを指し、またその収集した情報を分類して、つなぎ合わせて新しい価値を持たせ情報を共有することを言います。 キュレーションを行う人はキュレーターと呼ばれ、語源は博物館や図書館などの管理者や館長を意味する「Curator(キュレーター)」から来ています。