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【要約】予想どおりに不合理 著者 ダン・アリエリー

 

予想どおりに不合理
 

予想どおりに不合理  行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」

著者
ダン・アリエリー

 
 
要約
 

近年注目を集める「行動経済学」は、私たちがいかに「不合理」な存在かを明らかにしてくれる学問である。行動経済学の第一人者であり著者のダン・アリエリー教授は、意思決定における不合理性について認識することは、正しい意思決定の一助になると語る。なぜなら、私たちは不合理なだけでなく、「予想どおりに不合理」、つまり自由意思でものごとを決めたようでも、いつも同じように不合理な決定を繰り返してしまうからである。
ではどのような場合に、私たちは不合理な行動をとってしまうのか、著者は身近な実験から「おとり効果」「アンカリング」「先延ばし」などの「不合理性の罠」を次々と明らかにしていく。伝統的な経済学の見方を実験によって覆していく様子は痛快で読みやすく、日常生活でのよりよい決断からビジネスへの応用までを考えるための行動経済学入門書として最適の一冊だ。

要約

行動経済学とはなにか

行動経済学は心理学と経済学の両方の面を持っている。科学の領域では、私たちが完壁な理性を持っているという仮定があり、経済学では、まさにこの「合理性」という基本概念が理論や予測の基盤になっている。

「合理的な」経済モデルと言った場合、経済学者の大半と私たちの多くが信じている人間性についての基本的な仮定——私たちが自分について正しい決断をくだせるという考え方——を指す。ふつうの経済学では、私たちはみな日々の生活で直面するすべての選択肢について価値を計算し、最善の行動をとっていると予想する。

もし、なにか不合理なことをしてしまったら、「市場原理の力」が私たちをただちに正しい合理的な道に押しもどす。この仮定のもと、アダム・スミス以後、何世代もの経済学者たちは、課税から健康保険制度、サービスの価格設定まで、さまざまなものに結論を与えてきた。

ところが、私たちはふつうの経済理論が想定するより、はるかに合理性を欠いている。そのうえ、私たちは「予想どおりに不合理」である。不合理な行動はでたらめではなく、規則性があって、予想もできるのだ。

だとすれば、ふつうの経済学を修正し、未検証の心理学という状態(実証的研究による検証に堪えないことが多い)から抜けだすのが賢明ではないだろうか。そしてこれこそが行動経済学という新しい分野の目指すところである。

相対性の真相
人間は、ものごとを絶対的な基準で決めることはまずない。ほかのものとの相対的な優劣に着目して、価値を判断するのである。大半の人は、自分の求めているものが何かわからず、状況とからめて見たときにはじめてそれが何かを知るのだ。

自分がどんなスピーカーを欲しいのか、いま持っているものより音のいいスピーカーを聞いてはじめてわかるように、すべてが相対的なのだ。例えば、《エコノミスト》誌のウェブサイトに次のような広告があった。

ウェブ版だけの購読(59ドル)
印刷版だけの購読(125ドル)
印刷版とウェブ版のセット購読(125ドル)

印刷版だけを購読するのと、印刷版とウェブ版の両方を購読するのが同じ値段なら、だれが印刷版だけにしておこうと思うだろう?もちろん、誤植の可能性もあるが、それより、利口な人たちが私を巧みに操ろうとしたのではないかと思えてならない。これをマサチューセッツ工科大学の院生 100人に選ばせたところ、つぎのような結果だった。

ウェブ版だけの購読(59ドル)—— 16人
印刷版だけの購読(125ドル)—— 0人
印刷版とウェブ版のセット購読(125ドル)—— 84人

ではもし印刷版だけという選択肢(「おとり」)のせいで、判断が影響されているとしたらどうだろう。選択肢からおとりをはずしても、学生たちは、前と同じ判断をするだろうか。もちろんそうだろう。なにしろ外した選択肢は、もともとだれも選ばなかったものだ。

ところが、その結果、ウェブ版単独を選んだ学生は、16人から 68人に増えた。そしてセットを選んだ学生は、84人から 32人に減った。学生たちはいったいなぜ考えを変えたのだろう。これは予想どおりの不合理である。実は私たちは比べやすいものだけを一所懸命に比べて、比べにくいものは無視する傾向があるのだ。

つまり、Aと Bが大きく異なっていて、どちらかを選ぶのは簡単ではない場合、選択肢Aとよく似ているが、明らかに劣っている A’(おとり)を加えることで、Aとの相対比較ができるようになり、Aが A’だけでなく全体のなかでも優れているように見えるのだ。

エコノミスト》のマーケティング担当者は、ウェブ版と印刷版のどちらにするか私たちが決められないことを知っていた。そして、選択肢をあの三つにすれば、印刷版とウェブ版のセットを選ぶだろうと踏んだのである。

相対性は人生における決断を助けてくれるが、私たちを惨めな気持ちにさせることもある。嫉妬やひがみは、自分と他人の境遇を比べるところから生じるからだ。しかし私たちは自分のまわりを取り囲む「輪」の大きさを選べる。

そして小さい輪に移動すれば、相対的な幸福感は大きくなる。同窓会ので飲み物を手に高給を自慢している「大きい輪」がいたら、あえてそこから離れて、他の人と話すといったぐあいである。唯一の解決策は、相対性の連鎖を断つことなのだ。

先延ばしの問題と自制心
定年後のために貯蓄しようと誓いを立てるが、そのお金を旅行に使ってしまう。ダイエットしようと心に誓うが、デザートの誘惑に身をゆだねてしまう。私たちはなぜ先延ばしとの戦いに敗れてしまうのか。大学教授である私も、先延ばしはよく目にする。

そこで、学生を対象にしてレポートの締切を利用した実験を行った。私のクラスでは、12週間の学期中、レポートを 3回提出してもらうが、1つめのグループには、レポートの締め切りをいつにするか学生自身に決意表明してもらい、提出遅れにはペナルティーを科した。

2つめのクラスでは、学期中はなんの締め切りも設けず、学期の最後の講義までにレポートを提出すればいいとした。3つめのクラスは、3つのレポ-トに 3つの締め切りを設け、それぞれ第 4週、第 8週、第 12週に提出するよう命令した。

その結果、最終締め切り以外、何も締め切りを設定しなかったクラスは、成績がいちばん悪かった。自分で 3つの締め切りを選べた(まにあわなければペナルティー)クラスは中間で、厳しく締め切りを設けたクラスが一番成績がよかった。この結果からわかる最大の新発見は、学生に締め切りをあらかじめ決意表明させるだけで、いい成績を取る助けになるということだ。

わかりやすい結論は、高圧的な「外からの声」が命令を下せば殆どの人が気をつけの姿勢になるということだが、いくら効果的でも、命令するのが好ましくない場合もある。だから最善の策は、人々に望ましい行動をあらかじめ決意表明する機会を与えることである。

私たちが直面するどの問題にも潜在的な自制の仕組みがある。給料から貯金できないなら、会社の自動積み立て制度を利用してもいい。ひとりで規則正しい運動を続けられないなら、友人といっしょに運動する約束をする。このように事前に決意表明するためのツールは存在し、なりたい自分になるのを助けてくれる。

扉をあけておく
私たちはすべての選択の自由を残しておくために必死になる。たとえば、コンピューターにオプション機能が必要になったときのために増設可能な機種を買っておき、子どもが何に興味をもってもいいように、体操でもピアノでもフランス語でも、とにかく思いつくかぎりの習いごとをさせる。

いずれの場合も、必ずしも意識しているとは限らないが、私たちはこうした選択肢を残すためにほかの何かを手放している。子どもの習いごとの場合、さまざまな活動を少しずつでも経験させようとするあまり、子どもと自分の時間と、子どもが一つのことにに秀でる機会を手放している。

私たちは、重要かもしれないことのあいだを行ったり来たりしているうちに、ほんとうに重要なことに十分時間を割くことを忘れてしまう。必要なのは、いくつかの扉を意図的に閉じることだ。

新しい仕事やもっといい職場につながるかもしれない扉、自分の夢と結びついている扉は、閉じるのが難しいかもしれないが、だからといって扉を閉じる努力をしないでいいというわけではない。そのままにしておくと、本当にあけておくべき扉からエネルギーと献身を吸いとってしまう。

たくさんの扉を閉じて、あとふたつだけ残っているとしよう。こうなれば選ぶのは簡単だと言いたいところだが、同じくらい魅力のあるふたつの選択肢のどちらを選ぶか決めるのは、もっともむずかしい決断の部類にはいる。

ある友人は、デジタルカメラを選ぶのに、ほとんどそっくりの 2機種のどちらにするかで 3ヵ月迷った。2つの物事の類似点とわずかな相違点に注目していたとき、友人が忘れているのは「決断しないことによる影響」だ。悩む間撮れずに終わったすばらしい写真のことである。

私の友人はどちらのカメラを選んでも同じように満足したことだろう。つまりこれを簡単な決断だと考えればよかったのである。たとえコイントスで決めたとしてもやっていけただろう。

***

さまざまな研究からひとつ重要な教訓を引きだすとしたら、私たちはみな、自分がなんの力で動かされているかほとんどわかっていないゲームの駒である、ということだろう。

私たちはたいてい、自分がくだす決断も人生の進路も、最終的に自分でコントロールしていると考えるが、これは現実というより願望——目分をどんな人間だと思いたいか——によるところが大きい。

感情、相対性、社会規範などの力は行動に多大な影響をおよぼしているのに、私たちは自然にその影響力を過小評価したり、無視したりしてしまう。これは知識がないからでも、訓練が足りないからでも、意思が弱いからでもない。

私たちは、目の錯覚に引っかかるのをどうすることもできないように、心が見せる「決断の錯覚」にだまされてしまう。私たちが情報を把握して消化するころには、情報は脳によってフィルターにかけられ、必ずしも現実をありのままに反映したものではなくなっているのである。

もうひとつの重要な教訓は、たとえ不合理が当たり前のことであっても、だからどうしようもないというわけではないということだ。いつどこでまちがった決断をするか理解しておけば、決断を見なおす努力もできるし、科学技術を使ってこの弱点を克服することもできるのだ。

 

 

 

 

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