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【要約】超AI時代の生存戦略 シンギュラリティ<2040年代>に備える34のリスト 著者 落合陽一

超AI時代の生存戦略



2040年代にテクノロジーが人間の知能を超えると言われる「シンギュラリティ」が人々の不安をかきたてている。しかし、誰もが未知の次元であることから、シンギュラリティに向けた具体的な対応策は見えにくいのが現状だ。そんな「超 AI時代」に、私たちはどのように生きていけば良いのだろうか。
著者は、シンギュラリティを語る際によく言われる「人間は人間らしいクリエイティブな仕事をすればいい」という論調は、思考停止にすぎないと指摘する。そこで本書では、働き方ややアイデンティティ、受験勉強や子育てまで、34ものキーワードをもとに、そうした漠然とした不安に一つ一つ丁寧に答えていく。例えば、常時ネットに接続され、仕事とプライベートが混在する現代ではワークライフバランスではなく、「ワークアズライフ」を提唱する。

通読すれば、これからの生き方・働き方・生活習慣や、機械と人間の関係がどのように変化し、われわれは自身のマインドセットや働き方をどのように変えていけば良いのかが見えてくる。著者の落合陽一氏は、筑波大学助教電通 ISIDメディアアルケミスト博報堂プロダクツフェロー、メディアアーティストなどとして、多くの分野で国際的に活躍する気鋭の研究者。「現代の魔法使い」とも呼ばれる著者の思考回路から、多くの示唆が得られる一冊だ。

要約

これからは、「ワークク“アズ”ライフ」を見つけられたものが生き残る

古くから言われているワークライフバランス。今の社会に即すと、この言葉にとても違和感をおぼえる。いつでもどこでも情報と繋がり、いつでも仕事とプライベートが混在するような世界になった今、ワークがライフでない時点で、言葉が実生活と矛盾している。そこで、なるべくライフとしてのワークにする、つまり、余暇のようにストレスレスな環境で働けるように環境を整えていくことが重要である。

例えば、今の時代であれば、1日4回寝て、仕事、趣味、仕事、趣味、仕事、趣味で、4時間おきに仕事しても生きていける。仕事か趣味か区別できないことを1日中ずっとやってお金を稼ぐ人も増えてきた。「ワーク“アズ”ライフ」、つまり差別化した人生価値を仕事と仕事以外の両方で生み出し続ける方法を見つけられたものが生き残る時代なのだ。

ワークアズライフとして考えるとき、「ワークとライフ」の対比ではなく、「報酬とストレス」という捉え方のほうが今の働き方を象徴している。働く時間、休み時間という捉え方より、ストレスのかかることとかからないことのバランスのほうが重要だ。

要するに1日中「仕事」や「アクティビティ」に従事していても、遊びの要素を取り入れてストレスコントロールがちゃんとできていれば、それでもいい。この原則を考えながら動いていれば、これから段階的にやってくるであろうシンギュラリティまでのグローバルインターネットの社会活動で、より最適に生きていける。

「人間らしく生きる」という自己矛盾

コンピュータと人のインタラクションや人工知能、IoTや自動運転などの話をしていると、絶対に出てくる言葉がある。それが「人間性」だ。人間ってなんなのか、人間としてどうすべきか、そして私たちが何を人間として定義し、どこに人らしさを感じるのか、そして人に何をしてほしいのかがキーワードになる。

昨今の機械学習手法の一つディープラーニングの発展とともに、人間のように思考する知性が生まれつつある。私たちは、今、人間が人間らしく生きなくてはならないという自己矛盾を抱えたままユビキタス時代、およびデジタルネイチャーの時代に突入したのだ。

主体的であるという人間性、自ら思考するゆえに人間であるという考え方は、近代以降に獲得されたものだ。そもそも世界に主体は存在していなかったのだから、主体は、人類が全員で抱いていた妄想であり、集団の幻想の一つだったのかもしれない。

それは善悪の問題ではなく、全員が平等にインターネットの端末で繋がったときに、主体ではなく相対を意識した考え方に移ってくるだろう。もしくは、主体が得られる程度にコミュニティが分割されるかもしれない。この世界において、そのうち「自分らしく生きないといけない」という概念はなくなっていくはずだ。

日本だけを見ていけばよかった時代であれば1億分の1の自分らしさであればよかったが、今、全世界 70億人の中で自分らしくないといけない。そう考えると、今の私たちの意識がコミュニティに分かれるのは必然だ。

逆に言うと、どこかにコミュニティを作って、そこで自分らしければいいという「世界を狭める考え方」をすれば、自分らしさが定義できる。また、戦略的にはコミュニティを探すのではなく、コミュニティを作る発想が重要なのがブルーオーシャン戦略の基本である。

競争心と淡々とやること

これまでは、限られたパイをそれよりも多い人数で奪いに行かないといけなかったから競争していた。だが社会構造が多様化し、全員違う方向に向いていっても、社会が成立するようになった。例えば、研究でも、全員が違う方向に向かってやっていることに意味がある。

それらは、1個のパイを奪い合うのではなく、どうやって広げようかという超 AI時代の人間全体の生存戦略だ。その中では、「淡々とやること」がすごく重要になる。つまり「自分は自分の道を信じてやらないといけないし、他人は関係ない」ということだ。

「競争をする」というゲームが決まると、データさえあれば機械のほうが強くなるが、ブルーオーシャン(未開拓な市場)で、何をやるか決まっていない状況では人間は機械に十分に勝てる。この戦い方を身につけるためには、競争心は邪魔だ。だから、「先を越されたから」とか「先を越されそうだ」ということを考えるクセはなくしていこう。

また、今の時代を生きる私たちにとって、「信仰心」とは、宗教という意味ではなく、「何が好きか?」「何によって生活が律せられるか?」「何によって価値基準を持つか?」という、「自分の価値基準は、何なんだろう?」という問いに対する個人の答えのことだ。

日本が戦後に得た信仰は、「お金を稼ぐことは正しくて、自己を実現することも正しい」という「拝金と自己実現」の信仰だった。敬虔なキリスト教徒や仏教徒ならば、教義に従って平穏に暮らすことが信仰になるし、シリコンバレーが好きな人にとっては、会社を起こして、世界を変えると思っていることが信仰なのかもしれない。

そのように何かの信仰に属することは、これから価値が非常に多様化していく中で、個人が道を見失い憂鬱にならないためにも、ストレスコントロールのためにも重要だ。エッジを尖らせるために必要なことや自分の価値を決めるために必要なことを自分で持てば、ブルーオーシャンを歩いていくことに抵抗もなくなる。

趣味性、ゲーム性と遊び

「趣味性」は、生まれ持った肉体にひもづいたフェチズムのことだと僕は考えている。それは拭い去れない個性の裏返しであり、画一的ではないことをしようとしたときに、最初に見つけやすいのは趣味性の中だ。例えば、学生に「なんの研究をやりたい?」と聞くと、大抵最初は見つからないが、「趣味を研究にしていいから」という聞き方をするとある程度出てくる。

コンピュータには趣味性がない一方、人間は透明なところに趣味性をつけて行動していく。「色が付いた趣味」を見極めておかないと、シンギュラリティ化していく合理性に吸収されてしまう。そのためには絵を見てもいいし、体を動かしてもいいが、自分が「個体として何が好きなのか」を考えていくことが大事だ。それは非合理的なモチベーションからはじまるから、機械よりもオリジナリティが高い。

また、これからは「遊び」という概念もますます重要になる。子どもの頃の遊びは、ゲーム、将棋、ごっこ遊びやスポーツも、あるフレームの中に、問題設定があってそれを解決し、その中で報酬が決まることで楽しいと思えるものだったはずだ。

たいていの遊びはゲーム的に捉えることができる。例えば、スキーをゲーム的に捉えると、「より速く降りるということを問題として、その滑り方を解決し、その報酬として風を切る感覚がすごく気持ちいい」など、ゲーム的に分解できる。

そして、これからの時代はそういう遊び方ができる人とできない人に分かれる。なぜなら問題を立てる、解決する、ということが苦手な人がいて、自分が動く報酬が何かわかっていない人がいるからだ。報酬がわからないと継続性がなく、ワークアズライフとしてキャリアデザインは難しい。

自分でゲーム的なフレームワークを考えて「仕事」を「遊び」にしていくなかでは、報酬の「ギャンブル的」な定義の仕方が重要になる。つまり、ドキドキして、たまにうまくいく、という課題設定と報酬の話だ。また、ひたすら積み上げていくことに喜びを見出す「コレクション的な報酬」もある。それと、より体感的な「心地よさの報酬」というのもあるだろう。爽快感などの五感的な報酬だ。これら3つの報酬が、物事の継続性を生む。

以上のように、あなたが何の報酬で喜ぶのかを意識して、「遊び」として人生をデザインしていくことが、これからの時代のキーワードになるだろう。知り合いの野球選手に聞いた話だが、「野球が好きだ」というのも、ヒットが打てるかどうかわからないギャンブル的な要素と、コツコツと身体を鍛えて数字を重ねていくコレクション的な要素、そして単にカキーンと打つこと自体の快楽もあるという。あなたが今やっていることも、その3つを意識してみてほしい。

「ヒト」を再定義する

私たちはウェブ文化を踏み台に、ユビキタスコンピューティングの時代、IoTの時代を超えて、次の世界に踏み出そうとしている。それは人間中心主義からその次のパラダイムへの踏み切り台だ。人間―機械系の価値観が崩れようとしており、物質(マテリアル)・実質(ヴァーチャル)・人(ヒューマン)・機械(ボット)の区別は希薄になりつつあるのだ。

そして、私たちはキリスト教の後ろ盾を失った哲学のように、人間性を失った先にある次の科学・哲学を構築する時期に来ている。人は共同幻想を捨てて、どこに向かうのか。大雑把な仮説としては、共同幻想が回帰しうる 10万人程度の世界を 7万個作り出し、70億人を分割することで暮らしていくということだ。

その中で私たちは現実に帰属する時間と、各々の現実に帰属する時間を住み分けながらうまくやっていくのではないか。ブラックボックス化した科学技術社会は一見すると、コンピュータの奴隷のように人が振る舞うように見える。

しかし、それを「魔法の世紀」とするために、今私たちに求められていることは、シンギュラリティヘの恐怖を掻き立てることなく、人と機械の調和した、そして人間中心主義を超越した計算機自然の中で、新たな科学哲学を模索していくことなのだ。(了)

 

 

 

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