B! ゴロビシャ ネメシスの使い魔

古代ローマも少子化で滅亡した?少子化で滅亡は先進国の定めなのか…

各国の出生率(2019年度)

フランス 1.92
イギリス 1.79
アメリカ 1.77
ノルウェー1.71
オランダ 1.66
スイス  1.54
オーストリア 1.53
カナダ  1.50
日本   1.43

中国           1.6

韓国           1.0

台湾           0.9

インド       2.3
ポーランド1.39
ギリシャ 1.38
スペイン 1.34
イタリア 1.34  

もう終わりやね…

 

1980年の中国の出生率は4.5でしたが、2018年は1.2らしいです。終わってんなー
 2014年からふたりっ子政策に変えてるのですが、こりゃ無理ですわね…

https://globe.asahi.com/article/12150825

 

ウィスコンシン大学マディソン校の教授イー・フーシエンは、
中国政府は「一人っ子」政策の破滅的な結果を覆い隠すために実際の出生率をぼやかしてきた、と指摘している。
同教授の計算によると、2010から18年の合計特殊出生率は平均1.18だ。

人類はふつうに消滅するのでは?

国連「出生率は2.1以上ないと国が滅びる」

 

なんか人類滅びそうな勢いで減ってますね。

 

ちなみに、世界人口は100億程度で止まるだろうってのが今の予測みたいです。

アフリカが伸びていますが、それも時期に終わり、人類全体の人口が急速に減少していくと予想されています。

 

ローマ帝国ですら少子化で滅びた

多くの先進国で少子化傾向がみられ、滅亡の危機が訪れていますが、ローマ帝国が滅んだのも少子化が原因らしいです。

古代ローマ帝国も全盛期の五賢帝時代は出生率2.0を大きく割り込んでたようなので、多くの国は古代ローマ帝国と同じ末路になるのではないかと思います…

 

数々の戦争を経て版図を拡大した古代ローマも、「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)の時代を迎えるとローマ市民の少子化が顕著になってきます。

塩野七生著「ローマ人の物語」(全15巻)によると、紀元前2世紀頃は10人もの子供を産むのが珍しくなかったのに、ジュリアス・シーザーが帝国の基礎を築いた紀元前1世紀になると子供2,3人が普通になり、帝国が安定した紀元前1世紀末になると、恵まれた階層では結婚をしない人達が増えたと言われています。

紀元前二世紀までのローマの指導者階級では、グラッスス兄弟の母コルネリアのように、十人もの子を産み育てるのは珍しくなかったのですご、カエサルの時代にはニ、三人が普通になる。アウグストゥスの時代になると、結婚さえしない人が増えたのです。

シーザー

カエサル

アウグストゥス

 

子供を産み育てる以外にも快適な生活を選択できるようになったからである。

 ローマ市民の少子化は国家を維持する上で深刻な危機と認識された。

紀元前一世紀のローマの指導者層では今の日本のように少子化に悩まされていました。


  紀元前一世紀前半のローマの指導者階級では子供を育てること以外の人生の過ごし方が増えたことを指摘しています。独身でも奴隷が家事をやってくれて子どもがいなくても不自由がなかったということです。

現在の先進国では奴隷の代わりに家電が家事をしてくれて、子どもがいなくても不自由なく暮らすことはできます。現在の先進国と状況は似ているかもしれません。

古代ローマ少子化対策

皇帝アウグストゥス少子化対策のための立法を行う。それは子供のいる人達を社会的に優遇し、子供のない人達は税制や公職のキャリアなどで不利になるというものである。

例えば独身女性には独身税というべき税金が課せられ、独身男性には相続権がなくなる他、公職に就く時には子供のいる人より不利になるなどが決められた。

この法律は多少の修正は加えられたものの、キリスト教がローマ社会を支配する帝政末期まで存続することになる。

 人権思想が確立した現代では到底受け入れられない政策だと思うが、塩野氏によれば現代の歴史学者の間でこの古代ローマ少子化対策それほど不評ではないと言う。

少子化の原因は子供が生産財から消費財に変わったから

【資料2】
一方少子化は子供が生産財でなく高い消費財になるためで、
大学や大学院を卒業させてもなお、パラサイトシングルで親に寄生するので、こんな馬鹿高い消費財にうんざりし、できるだけ子供を生まないようにするためである。

 

 

ローマ人の少子化対策

 

 紀元前18年、アウグストゥスにより二つの法案の提出。ローマの法律はその区別のために、提案者の名前を付けて呼ばれていました。アウグストゥスカエサルの養子なので「ユリウス」です。

 「ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法」

「ユリウス正式婚姻法」

姦通罪

  この法案が成立する以前は、妻に浮気された夫は離婚か殺害での対処。

同様に家父長権を保持していた父親も娘を離婚させたり、殺すことで対応。

この法案が成立したことにより姦通罪は私的な問題から公的な犯罪に。公的な犯罪になったことで誰でも告訴が可能に。当事者だけではなく姦通幇助した場合も罪に問われる規定が存在。

 

婚外交渉罪法

 女奴隷や娼婦を除く、正式婚姻関係以外のあらゆる性的関係も公的な犯罪と規定。

正式婚姻法

  ローマの元老院階級と騎士階級の市民に対して。男は25歳から60歳、女は20歳から50歳まで、独身に不利な制度の創設。

 子どもを持たない女性は50歳を越えると相続権の喪失。さらに5万セステルティウス以上の資産があるならば誰かに譲渡する義務を負う。50歳以前でも2万セステルティウス以上の資産を持つ女性は結婚するまで毎年、資産から上がる収益の1パーセントを国家に収める。(1セステルティウスはワイン一杯ほどの値段?)独身の男性は遺産の相続時の不利益や公職のキャリアに就く際に不利に。

  世の独身男女になかなか厳しい法律です。逆に子供をたくさん産んだ女性に対しては特典を与えています。

3人以上子を産んだ女性は家父長権から解放されて経済上は男女平等になったそうです。この少子化対策の法律は古代ローマでは不評で割とすぐに現実に即したように修正されたようです。

提案したアウグストゥスの娘ですら正式な婚姻を守れず浮気して島流しにされていました。当のアウグストゥスも妻との間に子ができることはありませんでした。それでもこの少子化対策ローマ帝国の基本政策として長く重視されていたそうです。

 カエサルに実力で後継者に選ばれておきながら、自身は後継者の「血」にこだわったアウグストゥスでしたが、後継者として期待していた血縁者に次々と死なれ、結局は妻の連れ子であったティベリウスを後継者に指名することとなりました。ティベリウスの死後の皇帝には自分の血を受け継ぐものを皇帝にするように遺言を残しています。

アウグストゥスだけではなく五賢帝時代のローマでも最後のマルクス・アウレリウス以外は後を継ぐ子がおらず、4人の皇帝は実子を継がせることはありませんでした。いつの時代でも後継ぎというのは切実な問題ですね。

 ただ、少子化対策はローマ指導者層に限った話の様です。ローマ帝国全体で見れば人口は増えていました。兵役に就けるローマ市民権を持つ17歳以上の男子の国税調査の記録が残っています。

紀元前28年…406.3万人

紀元前8年…423.3万人

紀元後14年…493.7万人

 少子化対策だけではありませんが、アウグストゥスの基本政策政策が実を結び、その後、ローマ帝国パクス・ロマーナの時代を迎えることになります。

 増税大好きな少子化の日本でも独身税や独身が不利になるような制度の創設がそのうち作られるかもしれませんね。

それともローマ帝国のように移民を受け入れて日本人化して、そのうち移民や移民の子孫たちが総理大臣に…?

ローマ人の物語Ⅵ パクス・ロマーナ 少子化の項より

 

古代ローマ帝国を人口から眺めてみよう。あくまで数少ない文献史料と様々な考古学的調査に基づいての暫定的な推定値ではあるが、当時の人口動態とその人口動態を背景とした社会の様子が「古代ローマを知る事典」に概説されている。

まず首都ローマの人口は、イタリア全土を支配下においた紀元前270年頃の時点で約九万人だったが、以後カルタゴを滅ぼし、マケドニアに侵攻し、シリアを制し、ギリシアのアカイア連邦を撃破して地中海の覇権を確立した前130年頃には約三七万五千人に膨れ上がり、血で血を洗う権力闘争の果てにオクタヴィアヌスアウグストゥス)が即位、アウグストゥス崩御した西暦14年の時点で約八〇万人の超巨大都市に成長、最盛期となった五賢帝最後のマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝時代の西暦164年にはついに100万人となった。西暦164年のローマ帝国総人口は6130万人で、当時の地球総人口三億人の約二〇%がローマに住んでいた。ちなみに西暦156年の漢帝国の総人口が約6000万人と推計されており、当時、両国に全人類の四割が住んでいたことになる。

ローマ市街地の面積も古代都市としては破格の大きさで、最盛期のポンペイが63ヘクタールであったのに対し、アウレリアヌスの市壁(三世紀末建設)に囲まれた市壁内の面積は1386ヘクタール、現代日本の東京都墨田区1375ヘクタールとほぼ同じ広さである。ただし墨田区は人口254,627人(平成26年1月1日現在)と、ローマの四分の一程度である。もちろん城壁内に全て住んでいたわけでは無く城壁外にも居住地域が広がっていたが、市街地からあまり遠すぎても生活できないため、『できるだけ市壁の近くに』(P178)集まっていたと考えられている。上下水道が整備されていたことはよく知られているが、試算によるとコンスタンティヌス帝時代には一日に15~16億リットルの飲料水が毎日供給されていたともいい、これは墨田区の一日あたりの水道供給量の二十倍だという。

超過密都市であったため、ローマは一日中人々が行きかい、騒音がひどかったらしい。ローマでは午前中が就業時間で午前十一時ごろに人ごみのピークを迎え、止むことのない建築・補修工事で馬車や運搬車両が行きかい、鍛冶屋や細工師の作業音や物売り・物乞いたちの声が響き、日没とともに街には酔客が溢れて喧噪に包まれ、深夜には呪術師たちの詠唱や呪術道具の音が人々の眠りを妨げる。「貧乏人にとって都には、もの思う場所も休息する場所もない」と詩人マルティアリスが嘆いている。

人口の過密ゆえの土地不足からローマではアパート形式の集合住宅(インスラ)が多く作られた。集合住宅は高層化し、ローマからほど近い港町オスティアでは高さ十五メートル、三~四階建ての集合住宅などもあった。四世紀のローマでは一戸建て住宅1に対し集合住宅25というから、およそ96%が集合住宅であった。ただし建築技術が現在とは比べ物にならないほど低いから、上層階ほど火災や崩落の危険と常に隣り合わせで、それゆえに低所得者ほど上層階に住んでおり、このような危険から建築物の高さ制限も設けられていた。一方、一握りの富裕層だけが住む一戸建て住宅(ドムス)は集合住宅とは比較にならないほど贅沢な作りで寝室、食堂、客間、書斎など用途ごとに部屋が仕切られ、開放的な玄関広間、天窓と建物中央に設けられた中庭から光を取り入れ、集合住宅地区とは一線を画して都市の喧騒からも自由であった。

現代の大都市にもひけを取らない人口過密都市に暮らすローマの人々はしかし、現代人とは比べ物にならないほどその生涯は短く死と隣り合わせであった。

0歳時点での平均余命は女性25.0歳、男性22.8歳だが、これは非常に高い乳幼児死亡率が背景となっていて、0歳児の約30%が1歳まで生きられず、5歳を迎えられるのは男女ともおよそ50%程度でしかない。無事5歳まで生き延びると、5歳時点での平均余命は女性40.1歳、男性39.0歳となる。60歳以上生きられるのは、わずか10~15%というところだ。ゆえに非常に若い社会でもある。ローマの平均年齢は女性27.3歳、男性26.2歳で、60歳以上は女性7.4%、男性4.8%であった。老人(セネクス)の集まりを意味する「元老院(セナトゥス)」も実は二十代後半から四十代の議員でほぼ占められていたと考えられている。

このような若い社会であることを背景として年長者は尊ばれ強い影響力を持った。貴族層では、一族の最年長者が「家父長(パテル・ファミリアス)」として一族の生殺与奪の権を持ち、全財産を所有、イエに君臨し、元老院議席をもつ。ただし、政府とイエとが対立しないように、公務の地位が優先された。つまり、家では家父長と子の関係でも、公務にある子は家父長と見なされて、職位の序列が優先する。しかし、老人が尊ばれた一方で、強い家父長制社会の反動で、引退後も権力を行使するような年長者に対する憎悪の念もまた強かった。「六〇歳は橋から(突き落とせ)」ということわざや、棄老伝説も見られ、引退した老人から投票権を取り上げろと叫ぶ現役世代の声も強かった。

強い家父長に率いられたイエが帝国の藩屏として機能していたがゆえに、イエの存続のために結婚は非常に重視された。ローマ法では12歳以上の女性は結婚が可能であったが、初代皇帝アウグストゥスは貴族層に20~50歳の女性と25~60歳の男性は全て結婚状態にあるよう義務づけ、様々な出産奨励策を打ち出し、以後ローマ帝国の国策として受け継がれていく。

ローマの女性は生涯に五人以上出産しないと人口は減少することになるが、基本的にローマ帝国の人口は微増傾向であったから全体としては最低でも出生率は5以上であったと推定されている。ただし、エジプトに残る調査では結婚したことのある女性は全体の55%で、この55%の女性が出生子の85%を生んでいたことになるから、出産する女性としない女性との間には偏りが見られていたと考えられており、出産リスクも高く、母体の出産時死亡率は10%以上とされている。イエの存続を前提として女性たちには出産の義務が強く課せられていた一方で、出産は大きなリスクでもあり、上層階級になるほど妊娠出産を忌避して少子化傾向が強く、元老院家系の四分の三は二世代たらずで断絶している。

結婚時には女性に対して出産の義務が果たせるかどうかとともに、純潔であること、地位に応じて花嫁側が持参金「嫁資(ドス)」を用意することなど様々な義務が課されていた。出産の義務は上流階級や花嫁だけではなく女奴隷に対しても課されており、女性は母になるのが当然とされた社会であった。ただし「無手権婚」と呼ばれる結婚制度に基づき、妻となる女性が実父の娘としての地位のまま嫁ぎ、夫の権力に服す必要が無かったため、嫁ぎ先では比較的自由に振る舞うことが可能であり、また妻の側からの離婚の申し出も可能ではあったが、女性が権利を大きく制限されていたことにはかわりがない。

新生児を認知するかどうかは家父長に委ねられていたため、家父長が生まれた子を家族の一員と認めない場合、家父長権に基づいて嬰児殺しや嬰児遺棄が行われた。私生児や障害児の多くが殺されるか捨てられ、また遺棄されたのは男児より女児の方が二倍以上であったともいう。貴族は体面や恥の観念から、庶民は経済的理由から子殺しや捨子を行った。捨てられた子の中で生き残った者は長じて奴隷となり、労働力・戦闘力として戦争捕虜奴隷とともにローマの繁栄を支えることになる。一説には遺棄奴隷(「家内出生奴隷(ウェルナエ)」)は元首政期の奴隷人口780万人~1080万人の半数にも上ったともいう。

このようなローマの社会は日本でいうと、強い家父長権に基づくイエの存続を重視する支配階級、横行する嬰児殺しや嬰児遺棄の習慣、隷属した地位に置かれる女性たち、喧噪の大都市、繰り返し蔓延する伝染病などから江戸時代とオーバーラップして見える。前近代の一時的な繁栄を謳歌した様々な社会とローマとの比較を通じては、その繁栄の様子にではなく、社会の矛盾のあり方に何らかの共通点が見いだせるのかもしれない。

参考書籍
長谷川 岳男,樋脇 博敏 編著「古代ローマを知る事典

 

移民の受け入れで滅亡?

奥山真司(地政学者、戦略学者)


 現在はいわゆる「グローバル化」の時代であるが、それに大きく関係してくる移民・難民の受け入れ問題について書かせていただきたい。


 まず、先に結論だけいえば、移民や難民の受け入れが成功するかどうかは、歴史的に見ても「価値観や生活レベル、それに文化の違う人々をどこまで社会に溶け込ませることができるか」という点にかかっているということだ。


 「グローバル化」とは、国境を越えた「ヒト・モノ・カネ」の動きの活発化であるといわれている。「モノ」と「カネ」の動きは、自由貿易の促進という形で比較的受け入れやすいものと考えられているが、最も厄介なものが、「ヒト」の移動に関する移民や難民の問題である。


 本稿では、古代ローマ帝国と、その末裔(まつえい)である現代のドイツが直面している深刻な問題を振り返ることで、この厄介な移民・難民問題の核心を考えるための、いくつかのヒントを提供していきたい。


 古代ローマ帝国の崩壊というのは英国の歴史家、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』をはじめとして、近代の欧州では実にさまざまな知識人たちが論じてきたテーマの一つである。その最大の要因の一つとして、次々に侵入してきた難民の処理を誤ったことにあるのは間違いない。


 もちろんローマ帝国自体は、当時から世界最大の多民族・多文化社会である。無数の移民を同化したり、他民族のいる場所を占領したりすることによって数世紀にわたって発展してきた国であった。端的にいえば、当時のローマは現在の欧米のように、移民や難民に寛大だったのである。

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画像:Getty Images
 だが、今から1700年ほど前の西暦300年ごろから、状況がおかしくなる。ユーラシア大陸の内部、中央アジアから移動してきたフン族の侵入により、東欧を支配していたゴート族をはじめとする部族たちが追い出され、「難民」としてローマ帝国との国境沿いに大量に集結したからである。その数は、当時としても驚異的な20万人にのぼるといわれている。


 それまでのローマ帝国であれば、異文化の「野蛮人たち」を同化させるために、その部族をまとまらせず、小集団に分割して抵抗してこないようにしてきた。いわゆる「分断統治」である。

 ところが、当時のローマ帝国皇帝のフラウィウス・ユリウス・ウァレンス(在位364-378年)に、このゴート族の一部であるテルヴィンギ族を分断するだけの兵力がなかった。しかも、皇帝ウァレンスには労働力や兵隊としてすぐにでも活用したいという意図があったことから、分断せずにまとまって住むことを許可したのである。ここで誕生したのが、いわゆる「難民キャンプ」である。


 しかし、ローマ帝国は、難民状態の「野蛮人」であるテルヴィンギ族に対し、食料の中抜きのような腐敗や汚職のせいで、保護が十分に行き渡らず、難民キャンプで暴動が発生する。この暴動を契機として、テルヴィンギ族は本格的な反乱を起こし、国境の外にいた西ゴート族たちと呼応しながら、ローマ帝国の内部で自治権を確立させることに成功した。


 そしてゴート族たちは、ついにローマ軍と現在のトルコ領内で行われた「ハドリアノポリスの戦い」(378年)に勝って、皇帝ウァレンスを殺害した。さらに、410年には「ローマ略奪」により、ローマはゴート族の手に落ちた。その後も東欧からやってくる部族たちの侵入が続き、ついに、ローマ帝国は決定的な崩壊を迎えることになる。


 この歴史から得られる教訓は、流入し続ける難民の扱いを間違えて同化に失敗すれば、それが確実に国家の生存に直結するような大きな政治問題へと発展する、ということである。


 もちろん、スケールの大きさは違えども、現代のローマ帝国の末裔であるドイツ連邦が、同じような形で移民・難民問題に悩まされ始めていることは、実に興味深い。例えば、最近のドイツで注目されているのは、移民・難民による女性暴行事件である。
画像:Getty Images

 特に象徴的だったのが、6月6日に南西部のヴィースバーデンという都市で14歳の少女が暴行された上、殺害された事件である。難民申請中だったイラク人の容疑者は、事件2日後に高飛びしていた先の同国のクルド自治区で身柄を拘束された。


 その他にも、ここ1、2年で亡命希望者(asylum seekers)による性的犯罪が目立つ。実際のドイツ国内の犯罪率は全体的に減少しているのにもかかわらず、増加しているのである。とりわけ、このような難民や亡命希望者の男性による性的犯罪は、ドイツ国内で「中東系の男性に襲われるドイツの白人女性」というバイアス(偏り)の構図に拍車をかけ、実に悩ましい問題となっている。


 また、宗教的にも「イスラム教徒がキリスト教徒を襲う」という構図があるだけではない。欧州のリベラルな人々に対しても、「寛大な多元主義」を守るか、それとも「女性の人権」を守るかを迫っているという点で、強烈なジレンマを突きつけているともいえる。


 この問題に関しては、ドイツ与党でメルケル首相が率いるキリスト教民主同盟(CDU)の幹部、クレックナー食糧・農業相も、政府に対して、移民・難民の受け入れについて慎重にすべきだというトーンに変わってきている。メルケル氏の後継者の一人といわれるクレックナー氏ですら、有権者たちが直面する異文化との摩擦を目の当たりにして、政策転換を視野に入れ始めているのである。

 彼女が最近出版した本の中では、実際問題として、娘を遠足に行かせなかった移民や難民の両親や、女性教師と握手しなかった男親の存在などを挙げている。


 また、全体的に犯罪率は減っているとはいえ、バイエルン州では、2017年前期だけで性犯罪が50%上昇した。しかも、そのうち18%が移民や難民によるものという統計結果も出ている。ドイツは、全体的には「安全」になっているのかもしれないが、それがドイツ国民全体の「安心」にはつながっていないことがうかがえる。


 ここで、今ドイツで迫られている移民・難民に関する論点を整理すると、大きく二つの議論に分かれる。一つが「移民は国力になるし、難民受け入れは義務である」というものである。ドイツをはじめとする欧米の先進国による議論のエッセンスは、まさにこの言葉に集約されている。つまり、「経済」と「倫理・道徳」というリベラル的な観点から積極的に受け入れるべきだというものである。


 もう一つが「国境を開放してしまえば、ますます社会問題が深刻になる」という反対意見である。要するに「すでに生活している国民の安全を優先せよ」ということだ。だが、この主張をする人々は、とりわけ倫理・道徳面での話を無視していると感じられ、あまりいいイメージを持たれにくい。


 確かに、移民や難民問題において、日本とドイツ、さらにはローマ帝国までも比較することは無理な話である。だが、それでも、冒頭で記したように「価値観や生活レベル、それに文化の違う人々を、どこまで社会に溶け込ませることができるか」を真剣に考えなければならないのである。
独総選挙で躍進した反移民政党「ドイツのための選択肢」(AfD)に抗議する人々=2017年9月、独ベルリン
 果たして、われわれはゴート族が侵入してくるまでのローマ帝国のように、外国から来る人々を上手に同化させることができるのだろうか。それとも、ドイツのように、移民や難民が増えて悩むことになるのだろうか。


 移民や難民の適応や同化を間違えれば、いったいどうなるのか。グローバル化している現代だからこそ、われわれも真剣に考えざるを得ないのかもしれない。

 

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