セーレン・オービエ・キルケゴール
デンマークの哲学者セーレン・オービエ・キルケゴール(Soren Aabye Kierkegaard、1813-1855)は、自分自身がどう生きるかを問題視していた。
そのため、キルケゴールは、22歳のとき、「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために生き、そして死ぬことを願うようなイデー(理念)を見出すことが必要なのだ」と考え、自分にとっての個別的・具体的な生き方を示してくれる「主体的真理」を求めていった。
その結果、人間は、絶望をきっかけに3つの段階を経て本来の生き方にいたると考えたのである。
死に至る病
教化と覚醒のためのキリスト教的、心理学的論述である。
死に至る病とは?
題名の「死に至る病」とは新約聖書『ヨハネによる福音書』第11章4節から引用されているイエス・キリストが、病気で死んだ友人ラザロを蘇生させた際に「この病は死に至らず」と述べたことに由来し、即ち絶望を意味する。
絶望とは何か?
絶望とは自己の喪失であると述べている。
しかし、この自己の喪失は自己のみならず神との関係を喪失した事となり、絶望は罪であるとしている。そして人間は真のキリスト教徒ではない限り、自分自身が絶望について意識している、していないに関わらず実は人間は絶望しているのだと説いている
自己とは何か?
絶望=自己の喪失
絶望が自己の喪失であることはわかりましたが、ここで言う自己とは何なのでしょうか?
キルケゴートは次のように定義付けます。
死に至る病
第1章
「人間とは精神である。精神とは何であるか。精神とは自己である。
しかし、自己とは何であるか。自己とは、一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である 。
あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである 。
自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである 」
人間=精神=自己=一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である 。
or
その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである 。
自己=関係そのものでは無い
自己=関係がそれ自身に関係するということ
関係がそれ自身に関係すること=自己=精神=人間
要するに人間っていうのは関係がそれ自身に関係することという意味です。
なんと無くわかるようなわからないようなそんな感じですね。
関係ってなんだよって話ですが、関係とは繋がりであり、人間とは繋がりであると言いたいわけです。で、誰と繋がるのかというと、キリストです。
この死に至る病が書かれた地域を紐解くかなければなりません。
キリストは常に人びとを見守っています。故に、その関係が切れる。つまり。神を否認することで、人は死に至る病に陥ると説いているのです。
まとめ
簡単に言うと、死に至る病とは絶望のことで絶望とは信仰心を失ったこと。
絶望とはうつ病である
その絶望は、本来の自己の姿を知らない無自覚の状態から始まり、更に絶望が深まると「真に自己」であろうとするか否かと言った自覚的な絶望に至る。絶望が絶望を呼び、むしろ絶望の深化が「真の自己」に至る道であるとしている。
自分という存在の肥大化と、無神感、虚無感、ここで死に至る病として取り上げられている絶望とは、今で言うとうつ病です。
絶望の深化
- 信じもしないが判断も下されない段階
- キリストを無視し得ないが、信じることもできない段階
- キリストを否認する段階
神様なんていないとなれば完全に関係が断ち切られるわけです。
うつ病で死ぬ人は多くいますが、昔からいたのでしょうね。
うつ病は思考が内向きになり、それがどんどん奥深くに入り込んできます。
キルケゴートの言う、真の自己に陥る絶望の深化とうつ病の容体変化が酷似しています。
私も双極性障害で頻繁にうつ病に近い状態になるので、この死に至る病での表現に非常に共感できてしまうのです。
自律神経の乱れ、動悸は心臓が破裂するように激しく、早く何とかしなければ人生が終わってしまうかのような焦燥感に駆られ、常に見えない不安に押しつぶされるような思いをしたことがあります。
今思えば、完全に病気です。
神様を信じることができたら、うつ病を克服できるんですかね。確かに、無神論じゃよりもキリスト教徒の方が自殺しなさそうな印象は受けます。
無神論じゃは関係を持ちません。故に、絶望に至り、絶望とは死に至る病気であるため、死んでしまうと言うことです。