B! ゴロビシャ ネメシスの使い魔

名前を取られるということ(マルクスの疎外)

名前を取られる

 自分の名前、それはすごく大事なものだと思うのですが、名前を取られてしまうことが世の中にはあります。例えば、あるメーカーの会社員だとしましょう。自分が生み出した製品それは誰のもの?

それは、会社のものであって自分のものではない。

名前を取られてしまうのです。

私が作った、私が頑張ったのに…

なのに、それを作り出したと世間に評価されるのは会社です。

これが労働契約なのだ。モチベーションが上がるわけがない。

千と千尋で千尋が名前を取られる場面がある。あれは、まさしく労働契約を結んだと言うこと。

 

マルクスの疎外

 

マルクスは「 資本主義における賃金労働では疎外が発生している」と主張しています。

疎外とはなにか?

経済学・哲学草稿の中でマルクスは4つの疎外を指摘しています。

  1. 労働生産物からの疎外
  2. やりがいからの疎外
  3. 類的疎外
  4. 他人からの疎外

  

1つ目は、労働生産物からの疎外。

賃金労働性では労働者が自分で作った商品は、全て資本家のものになってしまいます。

こうして労働者は頑張って労働してもその成果は全て資本家の価値を高めるだけで、労働者は頑張れば頑張るほどに自らの価値が相対的に下がっていってしまうのです。

本来自分で作った労働の成果は自分のものであるはずなのに、それが自分から離れて、逆に自分を縛り、貶める。つまりここに疎外が発生しているのです。

キングコング西野さんの絵本に描いた人たちの名前が絵本には載せられず、批判を浴びたことがあります。

労働者としては嫌な気持ちになりますよね。自分が一生懸命描いた絵なのに、西野さんのものになってしまったのですから。私ならやっぱり自分が頑張った成果を他人に認めてもらいたといと思いますよ。

それが、この一つ目の疎外に当たります。


2つ目は労働に対するやりがいからの疎外。

労働中の労働者はたいていの場合、苦痛や退屈さを覚え、自由が抑圧された状態にあります。

アダム・スミスをはじめとした古典派経済学者は「労働は退屈で人間にとってさけるべきもの」という考えに疑いをもつことはありませんでした。

しかしマルクスはこれとは逆に。「労働(lavor)というのは本来、人間にとって創造的な活動(work)である」と考え、これが賃金労働制によってゆがめられていると言ったのでした。
人間は労働をしている間、自己を感じることができず、労役から解き放たれてはじめて独立した自分となることが出来るようになる。

つまり、ロボットの様に働かされているということです。

これは労働からの疎外が起きているからこそなのです。


3つ目は類的疎外になります。

類的疎外とは、人間は類的存在であるというのがまず前提にあります。マルクスにおける、類的存在とは、人間が動物とは違い労働を通じて自己を表現することが出来る生き物であるということです。にも関わらず、現在の我々の労働はただただ苦しいだけ。

これは私たちが類として疎外されているからなのです。


4つ目は人間(他人)からの疎外。資本主義では労働者は労働者として振る舞うことを強制されます。疎外が起きていなかったのなら、人間は自分の労働によって生まれた生産物を他人に与えることにより幸福を感じ、またそこに自己実現を覚えます。

しかし社会的分業が極地に達している資本主義社会では、市場に並ぶのは一人の人間が作った労働生産物としての意味はなくなり、単なる貨幣で価値を量るだけの商品になります。
こうなると人間の興味はどれだけ短い労働で、どれだけ安く商品を買えるかだけになり、それぞれの人間が利益を対立させるのです。こうして対立した人間達は、お互いに疎外された存在となります。


以上をまとめると「資本主義社会では労働の疎外を発生させる」というのがマルクスの主張です。


マルクスの理論によれば、「賃金労働制がない共産主義社会であれば労働の疎外は発生しない。各自が自由意志に基づいた創造的な労働だけ」になるはずです。

ソ連は崩壊したことからもわかる様にソ連型の社会主義は失敗したのです。

しかし、マルクスの言いたかったことは今資本主義が成熟し限界に達しようとしている世の中でヒントをくれている様にも感じます。

 今の日本でも間違いなく労働の疎外は発生しています。退屈でつまらない 苦痛のような仕事に私たちは毎日耐えています。

一人で全てやるというのはこれらの疎外を受けないと言えます。

自我を保つために

私は名無し、つまり名前がない。誰でもないし、誰かである。そうなると不思議な感覚に陥る。

私は何だ?

存在意義がわからなくなる。自我が保てない。

所謂、社畜と呼ばれる状態は大変危険な状態です。名無しなのだ。

終局的に人類がどこへ向かうのかは全く予想ができませんが、インターネットによってありとあらゆる壁が溶けて行くでしょう。今ではIOTとよく言われていますが、全ての産業がインターネットによって繋がります。それはモノだけではなく、人も例外ではないです。

 

Googleの自動翻訳でも年々精度が上がって行きます。よく、通訳が機械に代替されるのはまだまだ先だと思っている人がいますが、それは無いと思います。なぜならば比例的に精度が上がるのではなく、指数関数的に精度が上がって行くからです。

数年後には何十倍の性能になっている。

何が言いたいかと言うとすぐに言語の壁は溶けて、小さな段差くらいのものになっているということです。

人間の心の壁も溶かされて行くかもしれません。そうなった時に名無しでは困るのです。なぜならば、自分に帰ってこれなくなるから。

人間分かれているのも面倒なので、思考も統一して人間の総体へと進化を遂げるのかもしれません。頭の中にICチップなんか入れればすぐにネットに繋がってしまいますからね。

好きな人なら繋がりたいと思うでしょう。

でも、世の中にはぜっっっったいに繋がりたく無い人がいます。そうなった時にその人を拒絶できるアイテムが名前になると思います。

あまり、普段意識しないと思いますが、名前を大事にしまって置いて欲しいのです。

 

 

ようこそ!名無し文学部へ
楽しんでいってください。