ネルフ虐殺から弐号機の超作画
うつくしい…
異形な巨人たちが殺しあうシーンは神話の世界のような偉大さ、逞しさ、美しさを感じます。
あんなに戦闘中のGを感じる映像は初めてですね。
自分も引っ張られるようだった。
宮村と緒方の叫び
こっちまで痛みが伝わって来ちまうよ〜
甘き死よ、来たれの閉塞の拡大の名曲っぷり
名曲すぎる。なんだこれ。
「殺してやる殺してやる殺してやる」→フルフルもどきにバラバラにされる
→鬱顔のシンジ絶叫→シックなエンドロールにthanatos
の流れが神がかりすぎや…
エヴァが理解できないことが理解できない
こんな簡単な話がなぜわからない。ということで旧劇でみんながわからないと言ってる箇所を説明する。
アンチATフィールドで人類が皆液体になる←人類補完計画ってそういうもんだから。みんなで1つになるためにATフィールドつまり心の壁、自分を自分たらしめる境界を取っ払う必要がある。
シンジが自我を持ちたいと望むことでATフィールドが復活し自分自身に戻る←
シンジ君は自分をわかってくれない人たちが許せなかった。だから、みんな死んじゃえって思ったんだけど、リリスやカヲル君との会話で本当にそれでいいのかと思い止まった。だから、LCLの海から蘇った。
気付いたらアスカも横にいて2人っきり←
アスカはシンジと一緒になるのは死んでも嫌だったからわかる。
感動の再開かと思いきやシンジが首を絞める←
シンジ君は他人のいる不安と恐怖が取り巻く世界を願ったけど、実際に自分を否定したアスカが怖くなって殺そうとした。
エヴァは自分とは何か、他人とは何かを描いた作品なのですよ。みんな心の壁を持っていて、だからお互いに傷つけあったりする。他人がいるからこそ、排斥される、攻撃される恐怖に怯える。
だから、みんな1つになれば攻撃もされることはない幸せな世界がある。だから人類補完計画なんてものが出てきたわけですよ。
神になろうとしたんだね。でもみんな1つになってしまったら、誰が自分を自分だと認識してくれるんだろうか。誰もいない世界。それならば生きている意味もない。
自分の周りに誰もいなかったとしたら、誰からも観測されることはなく、誰にも干渉することができない世界だろう。果たしてそんな世界で自分は生きていると、存在していると思えるだろうか?
シンジ君はリリスやカヲル君との会話の中で自分の存在が消えることよりも他者がいる世界を望んだのです。
他者と自己の関係性というテーマを描き切った傑作なんですよ。エヴァは
こんなもの、中学二年生になれば誰だって一度は考えることでしょ。これが理解できないならどんだけ能天気にぼーっと生きてきたんだよ。
認められなくていいから傷つけられたくない人と傷つけられても認めてほしい人は分かり合えなくてもいいのだ
アスカはエヴァに乗ることがアイデンティティとなっていました。エヴァに乗ればみんなが認めてくれる。
私だけを見て!って感じですね。
しかし、シンジ君は真逆です。エヴァになんて乗りたくない。認められなくてもいいから辛いことから逃げ出したい人間なんです。辛いことをしてるんだから、みんな僕に優しくしてよ!ってことですね。
シンジは承認欲求の塊
アスカは独占欲の塊
アスカの方が先にシンジの本質に気付いたからシンジ死ねや状態になったんですよね。
分かり合えるはずがありません。だからこそ、お互いに否定しあっていたわけです。
皆さんはどちらですか?
ゼーレの皆さんは1つになり、新たに完璧な人類に昇華させようと考えていました。
間違った進化をしてしまったと言っていましたからね。
しかし、1つになりたくない人だっているわけですよ。
人類補完計画はあの後白い海から補完を拒否した人間がドンドン帰ってくる設定になっていまふ。
シンジ君と絶対に一緒になりたくなかったアスカが一番早く自らの体を手に入れましたが、あの後はポツポツとシンジ君と一緒になりたくない人たちが蘇ってきます。
シンジは誰かとひとつになるんじゃなくて他人の存在を受け入れることを選んで補完を否定
アスカはシンジとひとつになることを拒絶して補完を否定
補完されたくない人だっているわけですよね。
他人との対立は避けられない
他人のいる世界を選択はしたけれど、やっぱり他人との対立は必然ですよと言う話
シンジは自分の恥ずかしいことを知ってるアスカを恐ろしくて受け入れられないし、アスカもそんなシンジに対して「気持ち悪い」と言い放つ 。
「ばーか、知ってるのよ。あんたが私をオカズにしてること。いつもみたくやってみなさいよ。
ここで見ててあげるから。あんたが全部私のものにならないなら、私、何も要らない。」
でも、首絞められても、抵抗せず、頬を撫でるあたりアスカの優しさがわかりますよね。
シンジ君も情けなくて泣いてしまいます。
シンジ君の首締めとアスカの気持ち悪いは、お互いの事を知ってようが何だろうが、自我がある限り対立は起こりますよと言う事を端的に表しているのです。
やっぱ90年代って特殊な雰囲気だったよな
1997年夏
宮崎「生きろ」
庵野「だからみんな、死んでしまえばいいのに…」
1998年
富野「頼まれなくたって生きてやる!」
戦って、死ね
頭おかしくなりそう。
でも、この世代に生まれた自分は何となく落ち着くんですよね。
2000年に入ったからは無機質で退廃した世界がずーっと続いたんです。バブル崩壊から今に至るまで。クリエイターは敏感なのでもろあの時代の影響を受けていると思うんですよね。彼らはいち早く退廃した時代が来ることを予見していたと思います。そして2000年代、2010年代。リーマンショックや東日本大震災などなど日本の普通は崩壊しました。
大学に入ってからは安倍政権に変わり、長期政権で安定していたためかなり良くなりました。これがいつまでも続くとは思えませんが、もうホワイト企業に入社できたので、どうとでもなれって感じです。
今思うと、ずーっと鬱病だったな。
今は幸せすぎる。でも、なんか違う…
旧劇って見てしばらくは空しいもやもやしたやるせない気持ちにさせられて憂鬱で、その内諦めて受け入れて、こういうのも良いなって思えるようになるんだよな。
そんなものばかり見て生きてきたから、落ち着いてしまうんだよね。