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死海文書

いつ、誰が、何のために?死海文書の謎
死海文書は、いつ、誰が、何のために記したものだったのでしょうか?

いつ?

死海文書は色々な時代に書かれた様々な文書の集合体なので、いつ、というはっきりとした年代は定義できませんが、紀元前3世紀から紀元後1世紀までの時代に書かれたもので、今から2000年以上前の文書です。

誰が?

諸説ありますが、当時の中心都市エルサレムユダヤ教と袂を分かち、自らを「ヤハド」と名乗り死海周辺を拠点としたユダヤ教の一派が書いたものと考えられます。彼らはいわゆるエッセネ派だったのではないかと一般的に言われています。

エッセネ派とは、神殿祭儀を中心とした当時のユダヤ教から離反し、砂漠の中で生活しながら宗教的清浄さを徹底した人々です。エッセネ派の存在はそれまでもローマの歴史家たちの証言から間接的に知られてはいましたが、死海文書が発見されたことにより、エッセネ派の存在が現実味を帯びました。

内容は?

死海文書には、基本的には、古代ユダヤ教の文書です。旧約聖書の写本をはじめとして、外典や偽典、共同生活のルールを記した文書、法律文書、聖書釈義、聖書の語り直し、黙示文学、知恵文書、天文文書、儀礼文書、魔術文書など、その内容は多岐に渡っています。

中でも、他のユダヤ教の派閥と共有している文書ではなく、クムランの共同体が独自に生み出したと考えられる党派的なテキストがあります。

その代表例が、第1洞窟で発見された『共同体の規則』です。この中には、「光の子」と「闇の子」の戦いといった壮大な世界観から、「会議中に3回うとうとしたら10日間の罰則を科す」といった会社の上司の小言みたいなことまで、いろいろなことが書かれています。

何がわかる?

死海文書が示してくれるのは、ギリシア・ローマ時代のユダヤ教の実像です。文献史料が満足に残っていないこの時代のユダヤ教がどのような姿であったのかを、その当時の視点で直接教えてくれる証拠として、死海文書は非常に重要です。

 

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